BALL&CHAIN 2

2005年12月6日 ■マクドナルド

マクドナルド、関西ではマクドと呼ばれ、こちら、あるいはその他ではマックと呼ばれる。
ある種の目利きなら、マックの売り娘、そのスマイリーなJ−GIRLの立ち位置がいくぶん高いこと、われわれ消費者より若干の「高さ」を所有していることに気づくだろうか。消費者は満面の笑みをもって、見下ろされる。それでは他の店ではどうか、店員の動態視の酷使が円滑な商業をすすめる、これは確かだ、客の動きひとつとて見逃してはならない、ゆえに店員同士でベラベラ喋っているものは、商業にとって使い物にならない、よって立ち位置は客のアイ・ラインより若干高めのほうがいい、この考えを売り手の、その高さに反映させている店もある。もちろん低い店もある。いずれにせよ、商論理にのっとった空間配慮なれば、さしあたって問題ないだろう。だが、ここのマクドナルドはいつきても閑古鳥が鳴いている。見下ろす者を見上げる。見上げる者が見下ろされていることを意識しながら。(両者はともに足っている。これがいけない。客が地べたに座っているのなら、そこに見上げる快楽が発生する。突き刺すような仰視。)やたらに穿った見方だろうが、ここにぼくは国家を見てしまう。アメリカと日本の斜にかまえた関係を。それにいつの頃か、マクドナルドはいくぶん気取った店になった。お洒落になったのだ。70〜80年代の客の回転率だけを考えた不快きわまる猥雑な配色、それに環をかけて不快な鏡張りの壁、プラスティックの安っぽい椅子、おばさんの厚化粧、見るからに浮浪者な輩、煙草の煙という煙、そこにはキッチュというのも愚かな「あざとさ」があった。ぼくはその「あざとさ」が好きだったのだ。それだけだ。


2005年12月6日 ■ウィル・マッカーシーの『アグレッサー・シックス』、

アグレッサー・シックスと呼ばれる、敵情捜査班の5人と犬一匹、計6体が西暦3366年に突如オリオン座から接近した異星人艦隊と戦う物語である。作者のウィル・マッカーシーロッキード・マーティン社でソフトウェア・エンジニアをしていたという。1994年、作者が28歳の時のデビュー作である。話はいたって単純明快なので、ここでは触れないが、<ブローカーウェブ>と呼ばれる言語中枢網の考え方が興味ぶかい。例えばシェーナという雌犬。もと、できのよいガス漏れの探知犬であったシェーナの発声器官には音声合成器と通信機器が組み込まれており、その首輪には音声モジュール(子音と母音の組み合わせパターンと計数、強弱の度合いなどを割り出してくれる)が内臓されてある。そして、シェーナが「わたしはシェーナ!」と電子スピーカーで言ったりする。犬が考えていることをブローカーウェブが拾い出し、それを一番近い標準語の相当語彙に翻訳するのだ。そして首輪の音声モジュールが逆に、シェーナによって話された標準語を犬の神経パターンにさらに翻訳しなおし、この円環のショートサーキット(フィードバック)によって犬に人間的な意識をうえつけてゆく。これは『ドイツ・イデオロギー』におけるカール・マルクスの有名な定義「存在が意識を決定するのであって、その逆ではない」という唯物史観的言語生成の認識へとシェーナを導くのだが、しかしそもそも犬に発話させようとさせた理由は、「犬は犬だが人間の言うことをどうやら理解しているらしい」という平凡といえば平凡な憶測であった。(だから、ぼくはシェーナが電子スピーカーを介さずに「ワン!」と肉声(肉吠え)を上げる箇所がひとつもないのが気になった・・・ゆえにシェーナが「わたしはシェーナ!」という箇所も、映画的に言えばリップ・シンクロしていないのだろう。)そして、例えばケン。アグレッサー・シックスの一人、ケンの脳にはフウヘ語というウェスター種族の言語ソフトが詰め込まれているのだが、フウヘ語にはどうも「よろしく」に当たる単語がない。ケンは「よろしく」と言いたいのだが、それが不可能なケンの言語中枢網は「標準語で考えなくてならん、母語で・・」と、フウヘ語から乖離した自意識で自分に言い聞かせたりする。これは意識と発声器官の経路が完全に分離されている状態であり、この分離がこの物語の伏線を作るうえで重要なモティーフとなっている。ケンは、最初の敵であるウェスター軍が来襲してきた時には、意識をその敵情に同期させるために、フウヘ語からウェスター語の言語ソフトに変換するのだが、「あなたにはウェスター語は話せない。なぜならあなたの声帯が尺八みたいに二声部になっていないから。」と犬のシェーナに指摘される(しかし西暦3366年の犬が尺八の存在を知っているのには驚く)。そこでケンはがんばって声帯模写をすることによって、一時的にウェスター語をマスターするのだが、しかし相互間における言語中枢網の認識のズレ、言い換えるとテクノロジーとしての言語中枢網が個々の判断を迫られる際に不可避的におこる認識の齟齬にぶちあたる。そして、このディスコミュニケーション自体がアグレッサー・シックスの内部分裂を促してゆくのだった。・・・しかし、SFをたまによむと、気が軽くなるのが分かる。その軽さは「この世界は世界の複数的可能性、世界は、じつはこれこれこうであったかもれないという、その複数性からからたったひとつ選択され、意味づけされた世界にしか過ぎない。」というシニカルともニヒリスティックともいえる可能世界論に依拠しているのだろう。確か「言語=ウィルス説」を最初に唱えたのはウィリアム・バロウズの『ノヴァ急報』においてであったが、アグレッサー・シックスは、よりテクノロジカルな描写が卓抜しているようにぼくには思われた。


2005年12月6日 ■京都における日本の橋 

保田與重朗をはじめて知ったのは、橋川文三の『日本浪漫派批判序説』を読んでのことだったか、その後、『近代日本の批評』だったと思うが、柄谷行人が編纂した別の書物の座談会の中、蓮実重彦が、「保田の著名なテキスト日本の橋は、京都旅行に行った際に車窓の中から遭遇したみすぼらしい橋を見て書かれた、しかも近代的な鉄橋の方は括弧に入れて、」と批判めいた指摘をしていたのを知った。2002年頃、保田が知覚した、そのいわくつきの「日本の橋」を撮影しにいこうと思い立ち、「おそらくこの橋ではないか?」と京都駅近辺(原広司が、そのコンペティションに選ばれ建造された、グロテスクな、鯨の内部、鯨の器官なき身体のような京都駅に変化していた、それはそうと鯨という漢字は魚へんに京と書く・・しかし京は京都の京ではなく、単位の京であるかもしれない)、塩小路河原町を下がり、やや東にはいったところ、高瀬川から分岐した小さな疎水にかかる、といっても、半ば水の流れを整流するために造成化された空間内部の貯水池のような一角にあった橋なのだが、それをたしか2、3時間かけて撮影した。保田が列車で京都を往来した際、車窓から見届けることができたのは、この橋だけだと確信し、「日本の橋」のモティーフのひとつになった橋を探り当てた喜びがあった。

それはそうと、江戸前期に角倉了以が造営の指揮をとった当の高瀬川を北上してゆくと、五条楽園という古びた小さな遊郭街がある。商業的にはほとんど瀕死の状態だと聞いているが、高瀬川にしな垂れる柳の美しさや、祇園の雅とはまたちがった、「うらぶれた妖しさ」(中にはいったことはないので遊女のことは判らぬが、女衒はみな、相当年配の方であった)を放つ町並み、建て物の見事さの一方でその遊郭の仕切り屋でもあるのだろう、会津小鉄会の本部が漂わせている、なみなみならぬ緊張感・・・話は変わるが、脚本家の笠原和夫の映画化されなかったシナリオ「実録共産党」が、その付録としてついている文芸誌のカラーページに、たまたま、小雨ふる五条楽園を徘徊する福田和也の写真が出ていた。まことに写真というのは恐ろしいもので、「懐かしさ」も手伝ってか、その雑誌を手に取り、ついでに氏の数冊、読みごたえのありそうな数冊をカウンターに持っていった。だから福田和也に興味を持ったのはここ最近の話である。以下は1996年に出版された『文学界』の連載を書物にまとめたテキストからの一節である。ここでは橋川文三が容赦なく批判されている。

だが、さらに、現在の日本人にとって「政治的ロマン主義」の問題を複雑にしているのは
、『日本浪漫派批判序説』を書いて、保田らを再び批評の俎上にあげた橋川文三が、ロマン主義的政治者と政治的ロマン主義者を区別するようなシュミットの議論の繊細さを一切無視し、その上保田與重朗の語る「浪漫」とドイツ・ロマン派の差異、さらにその中でもシュミットが「政治的ロマン主義」と呼んだグループ(そこにはシュレーゲルは含まれるとしてもヘルダーリンヘーゲルは含まれない)との偏差を無視して、シュミットの規定を日本浪漫派全般に被せようとしたためである。


2005年12月6日 ■カラオケボックス

ウタは・・・歌という歌は、だれかとともに分かちあうべきなのか?今ここにいるあなたとか、彼とか、彼女とか・・その空間原理が分有のトピックを十全に補填するのではなく、実のところ「分割」を促すことになびいてしまいがちな、コンサートホール、映画館、スタジアム、競馬場などなど・・・擬似共有のドラゴン、カラオケボックスに行ってみる。「空オーケストラ」という安直な二つの語のエディットをその語の起源にもつという「カラオケ」もまた少人数ではあるが、共有の、かつ分割の強制に満ちた空間である。もはや、時代劇などで見られる、車座になって士気を高めるために拳を上げて歌うという土着のエクスターズは微塵も期待できない、その一切の甘美さを欠いた場所・・・エンプティ・オーケストレーション。・・・歌声喫茶なる盛り場が70年代後半まで興盛を極めていたと聞くが、それとは似て非なるものだろう。薄暗い照明装置、視聴覚がことごとく回収される中枢センターから伝送される映像がうつしだされるモニターという祭壇。一昔前は8トラックのテープレコーダー、その次はレーザーディスクが視聴の強制力を行使していたと思うのだが、カラオケのモデルニテにおいては、通信手段によって整備された歌の歌詞と映像が即時的に目の前に届き、その歌詞の流れに同期して歌えるようになっている。・・・ケーブルかグラス・ファイバーなのか分からないが、伝送手段を使ったドメスティックな画一化政策は地方を都市に近づける。つまり地方を地方都市に変えてしまう。(チェーン・・鎖でつなぐ・・という発想は「どこに行っても同じもの」という肯定の意味合いが含意されるものだ(いわんや、食に個性なぞ必要ない!)言うまでもなくコカ・コーラハンバーガーの味はどこにいってもうんざりするほど同じ味だ、ここに絶望的に退屈な思想があり、美学があるのだが)。・・・スナックという場所(しかし、なぜスナックと呼ばれるようになったのだろうか)に行けば曲は1曲いくらとバラ売りされているのだが、おおよそのカラオケボックスは1時間単位で曲が売られている。歌、ないしはカラオケボックスのよさは同時代性を確認できることにある。懐古趣味を味わい、当時の時代の息吹を感じ取りたりないなら、同世代の人間とカラオケに行けばよい。遡行の対象は子供の手の届く値の張らないもの、つまり、ラジオ番組、テレビ番組から流れてきたヒットソングに集約され、子供に小遣いが与えられるようになった時点で、うたにおける同時代性の共有輪郭が希薄化されてゆくのがよくわかる。たいていのスピーカーシステムは上部にとりつけてある。下部にとりつけてあると、低音部が下半身に響き、ただ「歌う」ことによっては回収不可能な性的ポテンシャルを高めてしまうからだろう。・・・リトゥルネロ、それは幼い子供が暗闇を前にして「歌を歌えば大丈夫だよ。怖くなんかない。」という乗り越えの技法、カオスをコスモスに近づけるための生の技法として捉えられていた。小唄や口笛は、暗闇−恐怖に対する平面−壁をつくり、テリトリーをわが身にもたらしてくれる。と、ドゥルーズガタリが言っていたような気がするが、カラオケボックスはむしろ、恐怖を煽っているような気がしないでもない。ちなみにぼくはだいたい月に一回、一人で行く。(一人で行くのが最も楽しい)終了時間が来て、受付のお姉さんにお金を支払うときのあの恥ずかしさといったら!


2005年12月6日−E  ■流行

つまらないことを言うが流行は「来るべきもの」であると同時に「過ぎ去るもの」である。その季節ごとにあらわれる流行、靴先のカッティングスタイル、プリーツの幅、最高度にその色を細分化されたヘアカラーリングや口紅のグラデーションからの「流行色」の析出、スカートの類型など、およそ差異の極微値をもって、最大の差異とするようなメカニズム、同一平面の一歩手前に最後の抵抗を加える最短最小の差異の仕掛けが、ごらんのとおり、流行を流行としてマーケットをにぎわせている。ごらんのとおり?いや、その差異は目に見えるか見えないか、見えたとしても、いったいぜんたいそれがどこからの差異なのか、どこまでが差異なのか、簡単に判別することができないだろう。不可能な知覚の不可能値の高さ、そのエントロピーこそが、不自由な知覚を強いられる流行物一般の真意を形成するに至る。仮面の深さ(表層の魔術)は、その仮面を見られるたびに、魔術の模造に成功しはじめ、仮面社会を前提とした魔法のコピーが氾濫するたびに、カジュアル/フォーマルの二元的な実体論が無効になる。・・・流行物が瞬発的に促進する自我の分離の強制、通俗的に言う<時代遅れな感じ>は、流行イメージが流行イメージとして、確率論的に同期してしまうその瞬間にこそ発現される。しかし、この些少なアクシデント、つまり、<それ―流行物>を見るたびに自我が時間的(と同時に空間的)に退行するプロセスは、いかにして生起するのか?そもそも流行物とは、「自然に古くなる」というよりも資本主義的な要請によって強制的かつ限定的に未来を先取りした「人為的に古くさせる」、という強行的な時間(圧政)をその流行物の内部にかかえている対象objectであった。街のフラヌール(遊歩)、ネット・フラヌール、テレビ・フラヌール、そのスタイルはどうであれ、賞味期限つきの発想(平均寿命というイデオロギーも含めての)こそが流行物の基底を支えるメタ・イデアであり、諸フラヌールが確率論的に流行物を知覚させ、眼差しの消費、財の消費、そして諸力の浪費のプロセスを更新させるのに好都合な国家のイデア(金と商品価値の正攻法的同期性)と連結する時に、流行物一般はその同一性を獲得し、役割を全うしえたかのように見える。・・・真のフラヌールとは、他者のまなざしに徹底的にまみれることだ。他者の欲望によって眼差された他者もまた他者を眼差す欲望を目指すのであって、その堂々めぐりのなかで、資本が資本を産出させるようなコントローラーが「他者の眼差し(欲望)」を起点に作動する。恒久的な時間の生成が、その裏側で、物質を非連続的なるものに仕立て上げる「余白」のくさびを時間に打ち込んでゆくのだ。かくして流行は死に、再生される。


2005年12月6日−F ■『レフト・アローン』

直訳すると、「置いてきぼり」くらいの意味になるのだろうか、「放っといてくれ」つまり、「リーヴ・ミー・アローン」の対概念になっている。人は「放っといてくれ」と言うから「置いてきぼり」になる。それをくらった者は、膝をかかえて唇をかみしめるよりも、むしろ、ニーチェの「ひとりでいる人」に倣って、速やかに超人修行に励むべきなのだが、しかし「一人でいる人」は必ず「一人でいる人」と出会うことに運命づけられている。するとどういう事態がはじまるか。たぶん「一人でいる人」は「二人でいること」を願わずにはおれないのだろう。積算され、累乗化された「一人でいる人」は一定のコミュニティーと化し、ついに、「一人でいる」という事態からは遠く離れるに至る。冒頭、すが秀美がモーニング娘の「LOVE MACHINE」(愛の機械!)にのって学生たちとダンスする。楽しそうだ。それに「踊らにゃソンソン」的な猥雑さも醸し出している。うねり、ダイナミズム、エクスターズ。これは「疎外論紙一重な、水平化されたオルグが、直接行動が、現前する」といった旧来的な疎外論の克服という図式とは似て非なるものだ。このシーンが、どういった意図を持っているのかは知らない。ただ、右翼の街宣車が軍歌を捨て、できのわるいポップソングをかけているのに何の違和感も感じないような、それを「楽天性」とさえ感じることができないような「薄さ」がこのシーンにはある。ぼくはこの「薄さ」にだけ気づいたまでだ。・・・『レフト・アローン』は随分前に井土紀州からパイロット版をもらい、ヴィデオカセットで見た。その後、試写かなにかに誘われてアテネ・フランセにいったものの、かなり遅れてはいったので、正式版を語るには、まあ値しないだろう。だが、あれから随分たった今、思いつくままに「左翼」について思い巡らせてみよう。『レフト・アローン』は、「1968年」を意識しながら展開されるのだが、ぼくは「68年」をよく知らない。それを知っている人、体験した人は「68年」に思い入れたっぷりなのだろう、それはよく分かる。では何が分からないのか?それさえも明瞭には分からない。まずベトナム戦争があった。そして各地で頻発する不況があり、階級が整備された。これは分かる。反米主義をきっかけに、現在の「グローバリズム」と似て非なる「インターナショナリズム」が先進国を中心に世界的に展開され、「アメリカ資本が平和をもたらす(パックス・アメリカーナ)」というイデアの正当性への抵抗が理論的、文化的なレベルにおいて各地に頻発した。例えばシチュアシオニスト・インターナショナル。その理論的先導者であったギー・エルネスト・ドゥボールがピストル自殺を図るまでの経過、ゴダール&ゴランが『東風』を撮ったり、ドゥルーズガタリの『アンチ・オイディプス』があったり、イデオロギー的反発(法のフェティシズムと表裏一体の断言形の頻発、そして一切の曖昧さの排除)に何かと騒がしい時代だったのだろう。(イデオロギーという語をプラトンの「イデア」(理念)を理論(ロジック)化したくらいの意味に捉えると、ドゥボールの都市分析などは非常に面白く読める。)このくらいは知識としては分かる。しかし、それは単なる知識であって、思想ではない。なぜ、知識としてしか分かりえないのかと言うと、原因は一冊の書物、ネグリガタリの『自由の新たな空間』にある。「われわれは・・・を共産主義と呼ぶ」このフレーズにひどく落胆させられた、と同時に驚愕したぼくは、「・・・」が今や何にでも代入可能なブラックボックスとなり「・・・」はマルクスを読む者であっても、官能小説を読む者であっても、企業であっても秘密結社であってもよい、リンゴであってもプラモデルであってもよい、そんな楽天性がある、そう思ったのだ。(もちろんサンギュラリテ・・単独性という概念軸があってのこその楽天性なのだが)この『自由の新たな空間』というステキなタイトルの書物を読んで、左翼のモデルニテ(現代性)とはこういうことなのかと思うと同時に、ルイ・アルチュセールの『イデオロギーと国家のイデオロギー装置』を熱読し(今、思い出したけど、読書会まで開いていたぞ)、イデオロギー分析とは、極めて晦渋な表現でしか表せない微妙極まるニュアンスがあってこそのものなのだと、それこそこれら二冊はぼくに、トランス・ヨーロッパからの突風にガツンと頭をくじかれたような衝撃を与えたものだった。・・・『レフト・アローン』には西部邁や鎌田哲也らのインタビュー映像にまざってたくさんの書物が写っている。そのテクストではなく、カバーが。三一書房から量産されていたような古書店の隅に置いてきぼりにされたような(まさにレフト・アローンな)書物の表紙が。それにコンピューター・グラフィクスを使ったり、洗練されたエフェクトを施したり、それなりに現代的、都市的たらんとしているのはよく分かる。しかし、そういった意匠(技巧)を抜きにしても、一定時期のドメスティックな左翼運動思想史を映像と音響を通じて概観しえたという功績はあるだろう(これらの映像・音響を誰がどう機能させるかは未知の問題だから)。・・・以前彼と話した時「どうして鶴見俊輔(「転向論」を書いた鶴見俊輔)をとりあげないのか」という指摘をした。(だが、彼がどういった反応をしてしたか、とんと覚えていない。)「右か左か」という二元性は些末な腑分け作業でしかない。例えば、「なぜお前は右翼であることをやめるのか?」という問いかけに対する答えは、「それは彼が左翼に転向するということを必ずしも意味しない」この意味をまず包含するしかないだろう、この宙づりになった返答の複数の潜在性こそが、少なくともぼくは現代的だと思っているから、「転向」という概念は有効だと思われるのだ。(ちなみに鶴見氏は鎖国時代〜切支丹の国内流入から遡って転向問題を考えていた)・・・人は漂流するが、漂流をあきらめもする。例えば「ニートか?それともプラグマティズムか?」という貧困なオルタナティブは外的な圧力(暴力)装置にしか思えない。「オレはニートだ!」と叫んだところで、一体そこに何を見よというのか?しかし、「オレはニートだったが、ニートであることをやめた。」この呟きには耳を傾ける価値がある。なぜならそれはひとつの転向だからだ。この「転向」という観点こそが人を批判的、批評的な回路へと導くのではないか。そこにはきっちりした自己規定「おれはニートだ!」が必要だし、自己規定こそが自己を規定している自己を批評する立場をもつ、ここに「主体(の/という)まどろみ」から開放される主調音が聴き取れるだろう。第一に、あくまでも相対的な「第一段階」として。・・・「どうして(転向論を書いた)鶴見俊輔をとりあげないのか」という問いは、すぐさま「どうして(『構造と力』でアルチュセールを取り上げた)浅田彰をとりあげないのか」という問いにも連結されうるだろう。しかし、井土紀州は露骨に浅田彰が嫌いだ、というふうな顔をしている。(彼こそ真性の現代左翼なのに、と僕は思うのだが)ぼくはどちらかといえば好感をもっているし、アルチュセールを読んだという経験はことのほか大きかったから、氏のリーディングガイドにはとてもお世話になったという気がする。そして今村仁司か。(福田和也の『イデオロギーズ』はまだ部屋に放置したままだが、彼が大学の時、今村仁司に啓蒙を受けたとの旨が書かれていて、ぼくは、ううん、と唸った、彼の右翼的なポーズも、ネグリガタリ的な意味で現代左翼的なのだ)。・・・彼は大学の時、アナキズム研究会に籍を置いていたり、それなりの活動をやっていたりしていたというメモワールも聞いた。ぼくの大学時代(そんなものはなかったような気もするが)は、遊び呆けながらも着かず離れず書物をむさぼっていた口だけれども、大学を辞めてから、京都という磁場も手伝ってか、レフト・アローンな方々と話をする機会が多くあった。そう、浅田彰とか柄谷行人とかの名前に過剰な反応をしめす人たちだ。しかし、そういう人は同世代の中にも、たくさんいる。そっちの方が随分たちが悪い。68年、全共闘を通過した人は、ぼくの話にもちゃんと耳を傾けてくれる人が多かった。(ガタリの訳者でもある杉村昌昭さんとも偶然話す機会を得たことがあったが、彼もそういう柔軟な人だった)ポストモダン的状況からの過剰乖離反応‐差異を必死でまさぐろうとしてはいるのだが、ろくに柄谷行人を読んだことないくせに、柄谷か、けっ、お前まだ言ってんのか、みたいな田舎者づらをして、底なしのディレッタンティズム(たんなる固有名詞の貧しい羅列)に溺れるしかない輩が。またそんな奴に限って「小林秀雄は、青山二郎は、ハスミはいいね、美しい。」とか言ったりする。笑うしかない。・・・井土紀州はそういうディレッタンティズムスノビズムとは無縁である。しかし、彼のテクストには、ついに現代左翼的イデオローグ(理論的戦略)は発現しえないだろう。そう、彼のテクスト的地平においては(私の知る限り)プロジェクション‐ギャンブル(投企‐賭け)がないし、眩暈を起こさせるような鋭い皮肉さえない。そこにはエピソード、甘美な諧調をもつメモワールが支配的でさえある。そこに、むしろ過剰なまでの欠落をぼくは感じる。彼の中で『レフト・アローン』はすでに「レフト・アローン」されることが明瞭に意識されているかのように。


2005年12月7日  ■近すぎる・遠すぎる

マイルス・デイビスの「ラウンド・アバウト・ミッドナイト」のジャケ写真はやや距離をおいて見ると、じゃがたら江戸アケミに似ているな、と、彼について確か京都の知人が思いいれたっぷりに語っていたな、死後に彼の部屋の押入れからみつかった「ビキニの水着」やら「大人のおもちゃ」がどうのこうのという話・・たしかそんなことをぼんやり思いながら昨夜は眠りについたのだった。音楽が鳴っている。軽妙浮薄な音。チエさんからの電話で起こされた。時計を見ると13時だ。「新しいカフェができたからそこ行こう」たしか、彼女はそんなことを言った。新しいカフェができたから、そこに行く、問題はないだろう。「新しい」「カフェ」「行く」、あまりにも単純で、あまりにも擦り切れていて、あまりにも退屈すぎて美しい。800回繰り返し聴いても飽きないだろう。サティのヴェクサシオンみたいに。だが、ぼくは寝起きのコーヒーを入れる。豆を切らしているのでブレンディーのリキッド状のもので済ます。これはアイスコーヒー用だが、ホットでもいける。風呂を44度で沸し、沸くまで、コーヒーを飲み、トーストをかじる。風呂が沸いた。服を脱ぐ。リンスは切れたままだ。気にかかる。またもや首が痛い。寝違いか。湯船につかりながら15:00に西荻窪まで行くのだな、と自分に言い聞かせ、外出すると寒い思いをしなくちゃならんな、と思う。彼女の住んでいる西荻窪まではわりと近い。バイクでも20分くらいで着くだろう。だが、寒いので京王線で吉祥寺まで行き、JRに乗り換えることにする。北口に出て、彼女に「北口に着いた」と電話する。昨晩寝しなに読んでいた熊谷守一の『蒼蝿』の一節について頭をめぐらす。(氏の好物であった「赤福餅」について興味ぶかいことが書かれていたのだ。)セイユーの脇の特売コーナーで女の麗しい声がディランを歌っている。曲名が思い出せない。チエさんが来る。めっきり痩せている。驚いた。痩せているからか小さく見える。ダイエットをしたと言う。前は大きく見えた。今は小さく見える。どういうことか。(ちなみにニーチェ氏がこんなことを言っていた。「大きい女にはなにかがある、だが小さい女にはなにもない。」忘れがたい箴言だ。)新しいカフェに着く。なるほど、新しい。気取っていない。すかしてない。聡明な顔立ちの男前が来る。「何になさいますか。」「ビール。」「ビールには二種類ありますが。」「ラガー」。こういう会話が飽きずに繰り返される。歪みがない会話だ。安心する。そして彼女は喋る。とめどなく。話の速度にまったく追いつけないまま、それにまったく追いつこうとしていない自分については、ただやたらに「まどろんでいる、死んでいる」としか言えない状態が続く。悪くはない、ぼくはいつも喋りすぎるから。空気が彼女の声の振動を正直に伝える。だがぼくは自分の網膜を意識している。見えていることの奇跡を。さて、i−bookの隣の親父は帰ってしまった。彼女は話す。その目が「私は話している」と訴えている。ぼくは彼女の顔貌がサイレント映画のクローズアップのようになったと、ふと、思う。そして、目の前でなんでもかんでも喋ってくれる人がいて、よいな、いないよりかは、と。・・・およそ6時間、およそ7杯のアルコール、時はぼくに死の記憶を与え、彼女に生の記憶を与えたのだ。そして死と生は相殺され、記憶だけが残った。透明な夜だった。カール・テホ・ドライヤーのトラッキングショットのような。


2005年12月8日 ■赤い橋

二時頃に起きた。まだ左の首すじが痛いのが分かる。いやな痛みだ。多分ぼうっとしている時間が長かったんだろうか。寝起きのことは覚えていない。チエさんから電話、「わたしは風邪をひいたわ、あなたのせいよ、昨日あんなにお店を連れまわして、どういうつもりなの?今日はのりちゃんと池袋に映画を観に行く予定だったんだけど、行けなくなったのよ、君つきあってあげてよ、彼女も一人で映画なんて偲びないから。」その電話を切ったあと、しばらくたってのりちゃんに電話をする。いないようだ。切る。軽くタイカレーを食べて、コーヒーを入れる。首の痛みを覚える。何かに憑かれたような、何枚もの霊の薄い皮が貼り付いているような物理を想像する。痛みが直るというのは一枚一枚その霊の皮が剥がれてゆくようなものなのだろうか、神社でやってもらう御祓いとはそれを人為的に、他人の霊力を借りて取るようなものだろうか?そんなことを考える。書きはじめたのは遅かった。何をしていたのか思いだせない。思い出したいのに。書いている途中に、たしか煙草を買いにでかけた。歩いて15分くらいかけて。成城方面に向かう道だ。緑がたくさんある。CVでマールボロライトのソフトパッケージを二つ買う。これでなきゃ、だめなんだ、というふうに。中学校の体育館でバドミントンをやっていた。おばさんか、おじさんだ。・・・
9時頃からシナリオに取り組んだ。1時頃まで書いた。腹が空きすぎても書いていた。喉も強烈に渇いていた。くたくたになって外に出て、マダムリンに向かう。マダムリンは2時までやっているから。ビールときゅうりの漬物を頼む。アールのついたカウンターの端で、グラスにビールを注ぐ。自分の手で、自分の酒を注ぐ。それはきっと寂しいことなんだろう、酒を注いでもらうやつさえいないのか、お前は。そうだよ、しかし、そもそもそれがどうしたっていうんだい?自分に言う。勢いよく泡が立つ。泡があふれる。まだ、朦朧としているのか。そうだ、ぼくは腹が減っていたんだ。鞄の中を見る。気の利いた読みものは入っていないかと。地図が入っている。マップル。これは気の利いた読み物ではないな、ときゅうりを頬張る。今日はいつもより量が多いな、と思う。定食を頼む。カウンターの前の張り紙が鮮やかな「緑と赤」であることに気づく。この組み合わせは感覚的に「死」を想起させる。「赤と緑」は一対一配合すると黒になる。「黄色と紫色」も黒になる。だが、その黒はさして「死の想起」とは関係ない。それは意味に過ぎない。黒は死を意味します、白は平和を意味します、なぜなら・・こんな話を聞かされたところで、ぼくはますます落ち込んでしまうだろう。浅川マキの歌に、赤い橋を歌ったものがある。その橋を渡ったものは二度とこの世には戻ってこれないという子供が聞くと必ずその旋律、歌詞に脅えるような歌だ。子供は西洋近代音楽に慣れ過ぎているから、この歌に必然的に恐怖を感じるだろう。ぼくは勝手に想像する。片田舎の、経営不振で潰れたボーリング場に行くのさえ、車で3時間くらいかかりそうな場所、そこに橋のない川ならぬ川のない橋がある。水が完全に枯れている。周りには廃屋がちらほら、廃屋に紛れて、家がちらほらある。人はかろうじて住んでいる。その橋は真っ赤なペンキに塗られている。あたりは林の緑に覆われている。それは必ず「赤と緑」として網膜に激しく反射する。ある夏の午後、幼子が橋の入り口に立っている。本当はそこに「恐怖」を感じるはずだ、「恐怖」を感じてほしい、ドラキュラが十字架に脅えるように、なぜならその橋は「渡ってはいけない」橋なのだから。ペンキを塗ったその主はそう考えて、ここを反射的に渡れないように、極めて意識的に鮮烈な赤を、くすんだ灰色の橋に塗りたくった。だが、幼子は渡ってしまった。そして帰らぬ人となった。赤い橋のその先には何があったのだろうか?ぼくは知らない。赤く塗った主だけが知っている。その先には・・・そんな想像をしながらから揚げ定食を食べる。きょうは酒が回るのが早い。早すぎる。「1440円です」店員が言う。金を払う。ここの店員はすべて台湾人だ。二枚目が多い。「ありがとうございました」といえる人もいればいえない人もいる。「あうつぃおした」と早口で彼は言う。彼は二枚目な方ではない。店を出る。ふらふらになっている。「あうつぃおした」か。少し笑える。


2005年12月8日■ 乱れた数

真夜中、蛍光灯を消して、布団にもぐる。天井を仰ぐ。蛍光灯の白い輪の残像が暗闇にぼうっと浮きたって、くらげのようにたゆたっている。あっというまにくらげはすぐに姿をくらまし、闇に溶かされていった。ぼくは、布団を頭まで被り、さっそく眠りにつこうとする。毛布はまだ冷たいので、両足をこすりつけたり、股間に両手をあてたりする。両手、それは祈りの体勢だ。だが、すぐ近くにはペニスがある。手をばらしてひとつを睾丸の裏側にすべらせる。あたたかい。吐息が白い。目をつむる。冷蔵庫の音が鳴っている。しばらくして音は止まる。瞼をゆっくりあける。蛍光灯の輪郭がうっすらと確認できる。ぼくは思う。空襲とはどんなものか、と。戦争とは。・・・サイレンがけたたましく突然なり、目の前の景色を一変させる。近所のものがいっせいに飛び上がる。みんなは上着をたっぷりと身につけ、リュックを背おい、外に出る。白い息が冷えた空気に映える。拡声器からのけたたましい声、「至急非難してください」との声が轟く。ぼくは身動きひとつしない、自分は生き残ると無根拠に信じているからだ。みんなが防空壕に入ってゆく様、子供と母親が抱き合っている様を想像する。子供はゲームボーイなんかをやって時間を潰している。子供にとって、敵はゲームの中にもいる。夜闇、まっくらな闇に、ゴオオオと低音が轟く。閃光が洩れる。防空壕の暗がりに、恐怖だ。混沌だ。ヴィトンのバッグを肩から下げている若妻が出張中の夫に連絡を入れる。「空襲が来たわ、やばいわよ。」「防空壕からも連絡取れるんだね。びっくり。」「そうよ、地下からでも、だいじょうぶなauに変えたから、クリアに聞こえるでしょ。高かったんだから。」敵は近くを爆撃している。すごい音だ。博多の明太子がいかに美味いかを早口で主張する夫の声が聞き取れない。それに・・・防空壕の中ではパイナップルの缶詰が配られている。ドール、アメリカ産だ。子供がうれしがる。若妻が率先して気を利かせ、パインを皿にのせ、配る。配っているときでも、若妻は髪の乱れを気にする。子供はそれを頭に乗せたいとわがままを言う、天使みたいに。母親は子供に聞く。「まあすてき、あなた天使なんてどこで覚えてきたの。」子供は答える。学校の特別授業で『ベルリン・天使の詩』を見たんだ。ベルリン・天使の歌?母親は聞く。どんな歌かしら?・・それは、きっと・・プッチーニのオペラみたいなものかしら、違うよ、母さん、それは映画なんだ。・・・戦争が、空襲が起きたら、世界は少しでもかけがえのないものになるだろうか?そんなことを思う。たぶん何も変わりやしないだろう。ぼくはあくびをする。だが、缶切りくらいは買っておこうか。
 

2005年12月8日■一方通行路逆走

20代のはじめから、ぼくがワード・プロセッサーを初めて買うまえに、いろいろな知的欲求から書物からの抜書きや、それに関する感想や、そこから導き出された数々の図式や、その図式を視覚的にわかりやすくするために、色を塗ったりしていた、そんなノート類やカード類はいったいどこへ行っただろう、と押し入れからダンボール箱を取り出して探す。それに古いものに囲まれるというのは・・どういったものか、杉並の方南に住む同郷の女性は4,5歳時の写真をいまだに飾っている、それが自分を安心させるのだ、時が線的に続いているという事を自覚できるのだ、国道一号線を通ってきてはじめて東京と京都の間に道が続いていたということを自覚できるかのように、彼女は言う。それは、たぶん経験論と呼ばれるのだろうか。過去の自分を懐かしむ・・それは肯定的な身振りだろう、それが些末なメランコリーであっても、回復不可能な時であっても・・・今日の若者とはどんなものだろうか?知的欲求から自前のノートを作ったり、けなげにクーピーペンシルでカラフルな色を自前の図式に塗ったりするのだろうか。しかし福田和也の『イデオロギーズ』の冒頭部を読む限り、そうではなさそうだ。素朴な問いがある、先生、現代思想を学んだとして、何の役に立つのでしょうか?「お前みたいな馬鹿にならなくてすむ」と、福田和也はその生徒に言いたかったそうだ。ぼくは知的関心があった、周囲のものよりも、高校の時に、漠然と記号というものを考え出した。笑いを重視するものは、生理的に記号に敏感になるのだ、そう思った。カード類はアクリルケースに入っている。ノート類は見つからなかった、ジュリが送ったはずなのに、別のダンボールに入っているのだろうか。ぱらぱらとカードを刳る。まるでこれからポーカーがはじまるかのようだ。ヴァルター・ベンヤミンの「セントラル・パーク」からのメモが一番多いように思えた。「セントラル・パーク」は『ボードレール』に所収されているテキストだ。スプリーンというのはドイツ語なのだろうか、憂鬱、と訳されるスプリーン、ベンヤミンによると、憂鬱とは恒常的な破局(カタストロフィ−)の連続体なのだそうだ。憂鬱、そして破局、眩暈がする。先日杉並の西荻窪で同郷の女性とあった時も鬱病、ないし、鬱の話が出た。ぼくは鬱病になったことはないしその気分がいったいどんなものなのかもさして知らない、また知ろうとも思わない。「目の前がまっくらに・・」とか「コカコーラが灰色に・・」とかそんなものではないだろう。酒を呑む、それは鬱を回避するためだ、といえばなんとなくしっくりくるような気がする。昼間から、おかまいなしに呑む。ぼくは呑む、スキットルに忍ばせたり、小瓶に忍ばせたりして。そんなもの国家が、コンビニエンス・ストアが許していることだ。やがて視聴覚が過敏になり、目に水分がたまる。顔が紅潮してくるのが分かり、耳鳴りも頻発する。人は言う「君は呑んでいるね」「そうだよ、ばれたね、わかる?」ぼくは不自由する。過去に、どうしようもない過去に、そこには多くの欺瞞があった、回避策があった、悲惨があった・・・ほら、手をのばせばすぐに届くよ、ささやかな快楽が、ぼくは誘惑に負ける、神に誓って。それとも自虐か、そうとらえればもっと分かりよいだろうか。