ファミリーレストランはとてもうるさかった。


雨で湿度があがり、音ヌケが多少悪くなっているはずなのだが、人々のとめどない話し声、子供のわめき声、厨房から聞こえる食器がガチガチ接触する音が空間に反響しあい、その無数に交差している音を気にすればするほど、その場から逃げ出したくなる。音の逃げ場がない、ということがぼくの逃げ場を要請しているのか。しかしFさんが来た。Fさんを紹介しようとした人物が、ぼくが以前渡した作品集を探し出して持ってきていて、そしてFさんに渡した。それはもうだいぶ以前の映画で現在のぼくが考えている映画とはおおいにズレている。そして今朝、彼がかんたんな感想を書いて電子郵便で送ってきてくれ、それなりの返信をしようと思ったが当時を懐古することさえうまくできず、まっとうな反応が意識に浮上してこないことがわかった。過去の作品から離れることが必要なためか、以前つくった作品の原版やコピー、雑誌に書いたものも人に預け、それらが視界のどこかに位置し、すぐに手に届くところに定位させることをぼくは拒んでいる(のかもしれない)。






一日の時間の中で、あることに対する考えが分岐的、連鎖的になり、細分化されたと思ったらおおざっぱになり、おおざっぱになったら無くなって消えている、ということはしばしばある。考えのゴーストがどこかに回帰することもあるし、回帰しないこともある。分けすぎて考えると分からなくなり、つまり考えの力を弱めてしまうこともある、ということが分かった。