うつす





昔、ある人におそわった魚の生身を使ったマリネを作った。ボウルに食材や調味料を入れて、かきまぜるだけの簡単なもの。これでおいしくなったと思える地点まであれこれと調味料の加減を調整した。そして冷蔵庫に入れて保存しておくために別のうつわにうつした。





そこで、思ったことがある。ボウルからうつわにうつしてもその中身は変わらない。中身はかわらないことが「うつす」という行為を成立させている。つまり「うつした」とたんマリネからポテトチップスに変わってしまったらそれは、「うつした」とは言えない。しかし、「ボウルからうつわ」へと、マリネをおさめるフォームが変わったから「うつした」と言えるのか。うつされたものはいれものの中にあるが、いれものが変わったからと言ってうつされたものが変化するわけではない。だとすれば、はじめから括弧(うつわ−形式)にいれられたものが別の括弧(うつわ−形式)に変換されただけなのだろうか。





(ここで夏目漱石がたてた<F(形式)+f(内容)>という文学の定式化の試みを想起しなおしてもかまわないだろう)





しばらくして、「うつす」、この3つの音を手がかりに撮影のことを考えていた。撮影は近代のものだ。近代が要請し、近代をつくってきた。うつされた(移された)現実は写された像になり、それが人間の知覚を通じてはじめて映される対象になり、意識に投射されて固有の像につくりかえられる。このプロセスを自覚することなしに自発的に映画を見る、写真を見るという行為は成り立たないし、映像メディアを語ることもできないし、語の真の意味において映画を撮るという行為さえ成り立たないだろう。





ビデオでうつされた像もフィルムでうつされた像も、ともに同じうつされた像である。うつされた像は、かたちを線で枠づけていることには変わりない。(たとえば、トレーシング・ペーパーという物質があるが)トレーシング・ペーパーは半透明だということが理解できるが、ヴィデオカメラや光学機械に対するイメージがその半透明性の理解を奪っているだけである。




そして、「フィルム=映画」であり「ビデオ=映画」ではない、といういまだに続いている馬鹿げた議論は、この半透明性に対する無理解がおしすすめているだけである。