音楽の反方法論序説




かつて「inter communication」に連載されていた高橋悠治「音楽の反方法論序説」のファイルが青空文庫にアップされている。ぼくの記憶が正しければ、このテキストは本には印刷しないという筆者の告知が誌上にでていたが、連載後しばらくしてフロッピーディスクで販売されているのを見かけ、それを買い求めた。しかし、時が経ち、そのディスクも紛失してしまったのだが、同テキストを3,4年前にインターネット上で発見し、年に2,3回目を通していた。





今日、再び目を通し、非常に不思議な感覚に襲われた。まず「知覚が鋭敏になる」ということはどういうことかを考えさせられた。知覚はそれを鋭敏にさせればさせるほど手持ちの観念を裏切ってゆく。それは脳内に閉じ込められたことばは世界に対峙している自己を意識させるもっとも簡単な道具である、これを知覚の鋭敏さそのものが認識させてくれるということなのだろう。





考えるということは言葉で考えるという意味において作用する反作用。世界の非―意味性をおしえてくれるのは文章の意味や囲いから外れた単語のシラブルであったり、シラブルを複数のことばのもつリズムに変換したときに現れる文章の外側にある何かだ。宙を浮きつつも巨大なうねりが持続的に振動しているような文体。






1+1=2は知覚として正しいのか。ラッセル−ホワイトヘッド数学基礎論として正しいのか。「南方熊楠は、空に浮かぶ雲と雲が流れあい、ついに一つになる光景を見て1+1=1であると言った」と話されていた山口昌哉先生を今、思い出した。