BALL&CHAIN 3


 ■ 会計明朗

文字をタイプしている時に、何かが頭をよぎった。最初はつかみどころのない街の一角の映像だったが、しばらくしてその一角の地理を特定できる映像が再び頭によぎることとなった。再来した映像をできるだけ保持しようと努めていたものの、気を張って文字をつづけてタイプしていると、またまたその映像を忘れてしまった。「逃げ去るイメージ」とでもいうのだろうか。このようなイメージの明滅現象は誰にでもあるだろうし、子供のときからあったのだと思う。人と話している時でも、外をうろうろしている時でも。しかし、こういうことがあっては自己没入の場からすぐさま距離をとらなければいけないなと思い、旧甲州街道を通って、千歳烏山まで自転車に乗って出た。自転車に乗るのは久しぶりだった。スーッと滑らかに動く感触は変わらない。人がちらほら歩いている十字路を曲がったその瞬間、サッとすれ違う人の顔の捉えがたさもそのままだ。駅の踏み切りの近くに自転車を止めて、歩いた。踏み切りが鳴る。見上げる。縦に二列ずつ並んでいる赤い警告灯が順番に点滅する。警告音は一定のリズムでカンカンカンカンと鳴る。だが、その点滅(映像)と警告音(音)がついに同期しなかった。・・・そして何も考えないようにと努め、歩きながらちょうど10分くらいたった時に、「逃げ去ったイメージ」が再び頭をよぎった。そこでぼくはふと思う。追いかけていたイメージと逃げ去ったイメージが、いったいぜんたい完全に一致することなんてあるのだろうかと。それは閑散とした小さな道でのことだった。その道を往来する人はいなかった。「捕獲したイメージ」、今、ここでその像を記述することはできる。だがもう手遅れなのだ。それは近似値でしかない。だが、時間はあったわけだ。・・・「JAZZ」と書かれた看板が眼に映った。その下には「RAG TIME」とあった。別にジャズが聴きたかったわけではなかったが、狭い階段を上って重い扉を開けた。ここに来るのは二回目だ。前回はとなりのテーブルに中年のカップルが座って、いやな思いをしたのを思い出した。狭所は苦手だ。だが今日は空いていた。カンパリソーダを頼んだ。しばらくしてカンパリソーダが出てきた。カウンターには二人の男性が座っていて音楽理論の話をしていた。「すべての理論は後づけであり、ドグマであり、正典であり、虚偽だ」、その声だけが、はっきりぼくの耳に届いた。その長髪の男は理論を呪っているか、あるいは敵視しているかのようだった。ぼくはテーブルの上にメモ帳を広げていて、何かいいアイデアがやってくるのを待っていた。JAZZから一転して、哀切な女の声のポップスが流れてきた。それもまた哀切な感慨をぼくにもたらすのは分かっているのだが、ぼくはジャニス・ジョプリンのサマー・タイムか、アルバート・アイラーのサマー・タイムを聞きたくなった。




■ 電話番号変更

夜、北東から眺めるつつじヶ丘駅は美しい。2つのプラットホームがあり、4本の線路がある。一直線におおきく、なめらかにカーヴのついたこうこうとひかる蛍光灯。その光が、なだらかな丘地に建ったその駅に立つ人の、その形象を尊大に見せる。どんな馬鹿でもどこか勇敢で大きな人物に見せる。それは駅の照明装置と見る側のやや仰視気味のアングルがそうさせている。ずっと見続けていると、逆光に映える黒々とした人物像の適度に距離をおいた連なりが書割芝居のワンシーンに思えてくる。・・・コーヒーを入れ、以前から放置されてあった新理論の草稿メモを時間をかけてタイピングし、ごはんをたべに出た。つつじヶ丘の駅前ビルの三階の、まったく気取っていない通俗的な居酒屋のカウンターに座った。適当に呑みたべする。辺りががやがやしている。作家の古井由吉は、戦後映画である小津の『東京物語』を見て、「空襲で焼けて無くなった家が少しも写っていないではないか、これは東京ではない」と憤慨していたらしい、そんな文を読む。昨日は寝つきが悪かった。3時頃目をつむると、とたんに想念が拡散しはじめる。電気をつけなおし、手を伸ばしてフリードリッヒ・キットラーの『グラモフォン・フィルム・タイプライター』を開ける。この分厚い書物はぼくひとりが買ったものではない、いつの頃だったか、町屋を改造した家を借りていた時、二人にしては部屋が広すぎたので、一人、学生の同居人を置く事にした。学生のわりには知的関心の豊富なその人に、よく映画のお手伝いをしてもらっていて、この書物は少々値が張るので二人で買おう、いうことになったのだ。だが、知らずのうちにぼくが独占してしまい、東京にまで持ってくることになった。そういうことも含めて、一度連絡をとろうと電話を手にしたが、電話番号が変わっていたようだった。さて、寝つきの悪い夜に読んだ『グラモフォン・フィルム・タイプライター』、それはぼくの寝つきをよりいっそう悪いものにした。結局眠りについたのは朝の八時頃だった。翻訳者の意図だろうか、そもそもの文体なのか、文意がよく伝わってこない箇所が多々ある。字面的には、やさしい印象を持つのだが、それにしてもしっくりこない表現が多い。だが、吸い込まれるような、読み手を釘付けにするような魔力がこの書物にある。ヴァーグナーの『ニーベルンゲンの環』の初演舞台が現在の映画館での上映スタイルを用意した、という指摘が興味深かった。この箇所は確か以前にも目を通したが、すっかり忘れていた。資料が豊富だ。オリヴェッティーの昔の広告やヒステリー患者のビアズリーロートレック風のイコノグラフィー。しかし、その本にも頭が痛くなり、枕もとにある広辞苑をぱらぱらとめくった。広辞苑は網羅的である。徹底している。イメージの定義を確認する。心に映る像。または心象。音楽の項目は小泉文夫が担当していることにやや驚いた。一度布団にもぐったら、その暖気に囲繞される。さて、寝なくては、と思い眼をつぶるが、再びさまざまな想念が頭をめぐる。それは「映画という表象形式はホラーとメタフィクションにそのジャンル的な親和性をみせる」というぼやけた想念からはじまったように思える。




■ 母音占い

アラームをセットしたとおりに13時13分に起きた。肺が痛いのが分かる。酒と煙草のせいだ、首もまだ痛い、左下が。ねっころがって携帯の占いを見る「かに座 第12位 ちょっとでもいい事をみつけよう」要するに12星座の中で最下位だということか、最近は毎朝占いを見る。ぼくは占いを信じるほうかもしれない、そして占いを信じるのも、信じないのもたいして根拠がないとも思っている。すきでもきらいでもない、ロマンティックだとも思わない。占う主体の不透明さが占なわれた自己を規定する一方向性が気に食わないとも思わない、仮にかに座が第一位だったとしても、喜ばない、最下位であっても苦しまない。さて「占い」についての若干のメモワール、回想をお許しいただきたい・・・以前、暇があった時、ぼくはある占いを開発しようと試みていた。それを勝手に「母音占い」と名づけていた。簡単なことだ。母音占いは日本語の50音という超越項(体系)を利用している。やまだたろうはAAAAOUとなり、おおにしゆかりはOOIIUAIとなる。ようするに名前から子音を削ったときに残る母音の系列で、その人を占なうというものだ。さて、どうやって占うか、まあ自前で考えた暴力的な象徴体系だから、さしあたってここでお披露目することはないだろう。さて、この母音占いをつくるにあたって、ぼくの周囲のものの名前を網羅的に母音に還元したデータをとっていたことがあり、巷のカップルたちがうまくいくかどうかを戯れに占っていたことがある。例えばこんなふうに。「君の名前はIIAUIOであり、君の彼氏はAIAUUIだろ、君たちの間で足りないのはまさにEなんだ。Eが抜け落ちているから名前にEの多い人を仲立ちにすればきっと君たちの間はうまくいくんじゃないかな。」とかなんとか適当に言っては、恋に迷う者の道しるべを提供していた。自分で思いつきのままに何かをやっているという感覚があった。データをとっていて思ったのはAIUEOとNがパーフェクトに揃っている人がいかに名前の少数派であるかだった、それにはポーカーにおけるロイヤルストレートフラッシュのような希少性がある。データの中で見つかったのは、唯一私が高校三年の時にもっともなかのよかったキタオカシンスケただ一人であった。「IAOAINUE」これは、パーフェクトであった。だからと言って、彼のパーソナリティーがパーフェクトだというわけではさらさらない。だが大いに変わった奴だった。彼は高校の時から萩原朔太郎の詩についてぼくに啓蒙を与えんとしていたが、彼の話はまったく理解不可能だった。それに一緒にバンドをやっていた。そして彼は自作の詩集をつくることを試み、ぼくはなぜか表紙を描いてくれと頼まれ、へんな絵を描いた。キタオカシンスケは、今も稀少なやつだ。だが異常である・・・AIUEOそしてN、この完全性を誇っている名前がもうひとつある。それは造形作家の岡崎乾二郎である。OAAIENIOU。岡崎乾二郎の思考にも、ある種の「稀少性」をぼくは感じることがある。それはひとつの「鋭さ」とも「異常さ」言ってもよいが、それにしても「よくこんなことを思いつくな」という思考がたくさんあったし、今もそうだろう。




■ 絨毯の毛並みをととのえる

調布という漢字を「調べの布」あるいは「布のような調べ」と分解する癖から離れられない。音楽と衣服。あるいはハーモニクスと衣服。衣服の摩擦音、そこにブニュエル的、いや、むしろトリュフォー的と言うべきか、ある種のフェティシズムを察知してもかまわないだろう。だが、その心像は性的な想念を惹起するには、あまりにも曖昧すぎる。型紙通りに断ち切られた布が組み合わされ、ひとつの衣服となる、その生産過程以前の、もっと無意識に近いところに像の対象は生起する。それは面であり、面にできあがる陰影であり、陰影がみえかくれするリズムであり、面が消滅する瞬間のゴーストであり、そして面の死である。衣服を身にまとっている、この状態が、衣服の生産過程への意識から完全に絶たれた上で確立されているように、意識の及ばない、気づかれない場所でそれは中空にたゆたっている。・・・東の京都でしょ、ようするに東京都ってのは。このような「だからってどうなのか」と一瞬こちらが聞き返すしかないような会話のかけらを2年少し住んだうちに3、4回は聞いただろうか(だが、いくつかの書物を紐解けば、歴史はこの国の王さまの物語を教えてくれるにちがいない)。ぼくは「ここは東京だ、東京であるだろう」と思えるほどに愛着(「愛」と同じく無意味で空疎な言葉だ)があるわけではないし、長く住んだ京都でさえ、愛着と断言できるなにかを持っているわけではない。住んでいるのは東京ではない。武蔵野でもないし、調布でもない。一番近い駅は京王線のつつじヶ丘だと言えるぐらいがせいぜいである。と、そんなことを調布の駅前広場で、いちょうの絨毯を眺めながらぼんやり思う。子供が絨毯のよくできた模様をかき消すように、葉を蹴り上げる、パラパラと散る何枚かの葉。天気は良いとはいえない。8時か9時頃、こまやかな雪が降ってきた。それは雪なのか、雨なのか、いや雪だろう、いや雨だろうと、二人連れの男たちが目の前を通りすぎていった。あまりにも小さなその雪がいちょうの葉と接触するさいの温度差とはどんなものだろうか。温度差のことなる物質が接触する、だが、いちょうの葉がその形を失わずに現存する過程には、雪の結晶の、今まさにそのかたちをうしないつつある浸透があるにちがいない。形は残った。しかしその葉は水分によってできた染みをゆっくりと浮き上がらせ、絨毯の模様をいずれは書きかえることに成功するかもしれない。小さな変化を肯定はするが、大きな変化を好まない資本家の歴史的過程にとって、絨毯の模様の変化とは、それを気づかせるには十分なものだろうか。





■ オリオン座

昼過ぎに起きるとあっという間に日が暮れる。シナリオの前半の手直しをして、外を歩きにでかける。もう10時を回っている。洋風にはブランチというのか、朝食と昼食を兼ねたものに、とうふのお吸い物にミョウガを添えたものとサラダ菜をちぎったものにドレッシングをふりかけたものと、ぶたにくとキヌサヤをゴマ油と塩コショウで炒め、タバスコをふりかけたものをたべた。結構な量だったので、長持ちする。最近は部屋で定食をつくっている。定食はフォーマリスティック、形式主義的だ。お盆が、ランチョンマットがフレームになる。たべる順番という観念が介在する、たべる形、その方法を主体に意識させる(と言うとりも主体を用意するというべきか)。そんなことを思う。仙川駅前まで歩いて出る。まったく充実していない本屋に入り、本を三冊買う。折口信夫死者の書』、その他。クリスマスに備えての数々のイルミネーションがまばゆい、きれいだなと思う。しかし、空気が異常に乾燥しているのではないか、歩いていると喉の渇きを強烈に覚える、それにマフラーで首回りが熱っぽくなってきた。すぐ凍えに耐えられなくなるのはわかっているが、外でビールを呑むことにする。商店街からやや西にはずれたところに大きめの公園がある。その公園の前には楽器屋があり、ホフナーのベースが壁に吊ってあるのが外から見える。公園の木製のベンチに座り、プルトップを開け、呑む。周囲には誰もいない。喉が切れそうな感じがする。缶の味が舌についてくる。鉄のにおい、鉄の味だ。「映画においてイメージを肯定することはできないが、言語においてはイメージを肯定することができる」この命題がここ最近頭をめぐっていることに気を配る。つつじヶ丘に向かう。坂道を下りる。この坂道には滑り止めがついている。コンクリートを流した時に、円形の型を押しつけたのだろうか、その坂は京都の玄琢という場所を想起させる。鷹が峰の方に出る坂道だ。あっという間につつじヶ丘に着く。見聞録という支那そば屋に入り、支那そばを食べる。しかし支那そばとラーメンの概念的境界、実体的境界が認識できない。いずれにしても箸でカオスからめんをつまみ、口に運ぶわけだ。カオスから救出される一片の物質、胃に流し込まれた時、秩序、コスモスが到来する。両者はそういう方程式を共有しているのだろうか、たぶん、きっと、そうなのだろう。




サマリア、少し離れてヨブ記

隣には代わり映えしない凡庸な男が座っている。横顔をチラッと見た。耳にヘッドフォンをつけている。丸く白いその形は比較的最近発売されたものだろうと思った。決して古臭くはない。しかし、それがいっそうその男の凡庸さを掻き立てた。男は面白くない顔をしている。どこかイライラしたような。少なくとも物思いに耽っているといったような気の利いた風情はない。テーブルの上にはCDショップの袋が無造作に置いてある。ヴァージン・メガストア。男は音楽を聴いているのだ、多分、凡庸な音楽を聴いているのだろう、凡庸な男が凡庸な音楽を聴く、問題はないだろう、鞄の中から小説を取り出す。ペラペラとめくる。ここだ、活字を追いかける。サマリア、少し離れてヨブ記、目につきやすい単語がそのまま目に入る。すかすかな感じのカタカナを拾って、続きを読む。凡庸な男がまだ横に座っている。この凡庸な事実がよりいっそうこの凡庸な男の凡庸さを掻き立ててゆく。ページを繰る。フゥッと息をついて窓ガラスの外を眺めやる。まったく苛立たしいことに凡庸な男の姿勢がいっこうに変わらない。よく見るとテーブルには食べかけのコーヒーゼリーのガラス器がある。それにしてもなぜゼリーなのか?これは凡庸ではない。全部食べないのだろうか、思う。すると男が器に手を伸ばして食べ始める。食べ終わった。続きを読む。活字はすでにぼんやりしている。文字列がすでに抽象的な模様となっている。コーヒーフレッシュを入れ忘れた。シロップは入れたはずだ。カップに口を近づけて、飲む。甘い。シロップは入れた。フレッシュの小瓶をとろうと手を伸ばした。女が前からやってくる。だが、一人で座れる席はもうないだろう、相席になるか、出て行くか。小ぶりな店員は女に近づいて、みるから申し訳なさそうに声をかける。「相席になりますが、よろしいですか?」女は頷く。女は凡庸な男の前に座ろうとする。凡庸な男がぎこちなく足を組みかえる。女は店の暖気に気づき、コートを脱ぐ。女はさらに気づく、コートを置くところがないと。凡庸な男は、ポータブルのCDプレーヤーに手を伸ばし、停止ボタンを押し、ヘッドフォンを外した。あれ、お前は出てゆくのか、美しい女を目の前にして、思う。だが、凡庸な男は座ったままだ。女のコートは膝の上に置いてあった。二人は黙っている。いい天気ですね、とか、すてきなセーターですね、とか気の利いた言葉をかけてやれよ、思う。





■絶世の美女の話

夜の9時半頃、誰かと会わなければと急に思いたって近所の友人に電話を入れ、差し入れの酒をもって部屋に出向く。喉仏のあたりで出かかっている声が滞留に滞留を重ね、ダムに塞き止められたような状態になっていると言えばよいのか、この滞留物を放出するためにまず、自身の身体が用意されている、この事実をしかと見据えたほうがよい。それを頭で解決することはやめたほうがいい。そう簡単にはいかない。ぼくは突発的に誰かに軽く電話するか、一人でカラオケに行くかの行動をとっているようだ。この症状は一定のリズム、2週間くらいのサーキットで反復する。体は体の矛盾を嫌うが、矛盾は頭で理解されてはならない。「人間の不幸はまず家に居つづける事ができないことに発している」このパスカル箴言も、決して頭で理解されるものではない。Sの部屋にはMがいた。鍋が行われており、そこには高級な魚が無造作に放り込まれていた。ぼくの無意識はことごとく発話することに向けられていた。ほとんどそれは実際性、現実性、合理性からかけ離れた無意味な話だった。「1から10でもっとも好きなのは?」という問いと「1から10でどのあたりが好きか?」という問いはまったく違うという話になった。後者については、ぼくは「5、4」から「5、6」のあたりだろうかと感覚的に答えた。「なぜか」という問いに「そのあたりに深淵があり、地獄に通ずる道があり、この世の闇という闇が吹きだまっているからだ」と詩的に言い回した。・・・2つ上のMは昨年拘置所から出てきた男である。人身事故をやらかしたらしい。若い頃のジャン・ジュネと相貌が似ている(いや、本当に)。小柄にして敏腕敏速で「おれは決して歩く音を立てない。」と言う。「おれは歩いているのではない、綱渡りをしているのだ。」と言う。(ぼくはすぐさま綱渡り芸人アブダラとジュネの関係を思い出す)その視線は見つめることを嫌い、ついにどこかに定まることはない。首を動かしてばかりいるのだ。だのに、妙な落ち着きがある。テレビを見ているかと思うと、ふと首を回し、小舌をはさむMが、しばし画面から垂れ流されるファミリーロマンス(旦那が昇進して家計が潤うかどうかという世俗話)から目を反らしたまま、うつむき加減になりながらも、ふと顎を上げては、ぼくに目触れを与えた。Mは話しだした。Mの拘置所暮らしの時期、古老の職員に何度も何度も繰り返し聞かされた話だ。

ある村に絶世の美女がいた。絶世の美女は村の男たちからその美貌ゆえに賛嘆された。男たちの誰もが絶世の美女を手にいれたいと思った。だが絶世の美女には、良男がおり、婚約者もいるのだと男たちは考えた。あんな美しい女に男がいないわけがない、その男もおれたちみたいなズベ公とは違い、世にも麗しい絶世の男なんだと。男たちは絶世の美女を手にいれることをすでに諦めていた。その諦めこそが逆に絶世の美女にますます輝かしい光を与えていた。・・・ある日、絶世の美女が男と手をつないで歩いていたという噂が村に流れた。男たちは驚いた。そしてその瞬間から絶世の美女は絶世の美女ではなくなった。


      2005-12-16