読書ノート 4



■ 澤野雅樹 『ドゥルーズを活用する!』




かつて革新的だった何かがみるみるうちに、あるいはゆっくりと古びてゆく。それは毎年シーズン毎に変化を見せるファッション(モード)でもいいし、北島三郎の歌唱スタイルでもいいし、インベーダーゲームであってもいい。例えばシーズン毎にあらわれる<洋服の微妙きわまる差異>は女性たちを悩ますだろう。

「これはもう今年は着れないわ。」
「着れるんだけど着れないわ。」
「なぜってこれは去年のデザインだのも。恥ずかしいわ。」

一方クラシックと言われるカテゴリーはある種の「永遠」(つまり、新しくもなければ古くもない・・・・古典はあたかも「永遠」である<かのように>見える)を売りにしているが、それは資本主義が「新しさ」を作る(あるいは捏造する)強迫観念的な運動装置である限りにおいてである。モデルニテ(現代性)の駆動なしにはクラシックはそれとして成立しないのだ。シーズン毎にあらわれる流行のデザインを横目にクラシック派の女性はこう呟いているかもしれない。

「ふん、あれって今年の流行?去年のデザインとほとんど一緒じゃない。これでいいのよ。未来永劫シンプルな白いシャツでいいのよっ!」

・・・「思想」と呼ばれるジャンルではどうなのだろうか。書店の平積みを眺めてみる、「サルトル復活!」のキャッチコピーが目線を奪うかと思うと、その1メートル先の書物の帯には「今、ソクラテスに学べ。」とか「論語を読め。」というキャッチが目をしらじらと横切ってゆく。現在、思想には流行がない。なくても一向に良い。そもそも、ここ10年くらいの傾向として言説の場は圧倒的にネット空間に移行し,言説の求心作用はたちどころに分解/散逸しているのだろう。(ドメスティックには戦中戦後の小林秀雄、60年代の吉本隆明、80年代の柄谷行人など、思想の流行はかつてはあったかもしれないが、昨今は「○○力」と最後に「力(りょく)」とつけておけばそこそこ売れる、とか「○○脳の○○」とか、どこかに「脳(のう)」と入れておけば有り難がられる、とかそんな手合いが多い。「思想」以前に、それだけ「力」と「脳」が潜在的に必要とされているのだろうけど、子供騙しのようで辟易する)・・・僕はたまにフと思うのだけれど、およそ2000年前に紡がれた思想(ある特定の人の考え、といった軽い意味だ)が、この2009年の現在において<読める>という事実にたまさか驚いてしまう。いたって単純なタイムマシン的感性なのだが、一体全体、プラトンの『国家』はどのような部屋で書かれたのか、どういう照明だったのか、筆者はどんな服を着ていたのか、書き上げた後はコーヒーでも飲んだのだろうか。と、そんな想像を楽しんでいることさえある。(僕はものすごい知性を持った人や芸術家の食生活とか性癖とか知りたがる方だ)。・・・それはそうと、大昔の思想書が読めるのはどうしてだろうか。言うまでもなく、それは「近代」の恩恵にあずかっているからだ。グーテンベルグの印刷技術(1445年頃)の発明があり、明治期にそれが日本に輸入され、(例えば)田中美知太郎という翻訳者がいて、プラトンが読めるようになった。井筒俊彦という翻訳者がいてクルアーンコーラン)が読めるようになった(コーランは「古蘭」という書名で大川周明がそれ以前に翻訳/研究していたのだが)と言った具体的な史実がある。前置きが長くなった。澤野雅樹の『ドゥルーズを活用する!』(彩流社/2009年9月30日初版)である(ほんとうは活用にさりげなく鍵括弧をいれて「活用」なのだが、そのままにしておく・・・)。実にいい本だ。いい本は頭に活気をもたらす。ジル・ドゥルーズ(1925〜1995)という思想家(というよりも思考家?)はかつて流行していたし、ちょっとでも「知性」に関心を向ける者なら誰でも名前くらいは知っていた。だが、一方で初(うぶ)いポスト・モダニスト&スノビスト(関西で言う「ええかっこしい」)も蔓延していて、読んだこともないくせに「へ、お前ドゥルーズなんて読んでるの?」という輩もいるにはいた。たしかに「流行に乗る=ダサい」という込み入った批判的回路があり、それを全面否定するわけではないが、(現象としての)ドゥルーズムーヴメントはいつしか去っていた。(おそらく第1次ムーヴメントは70年代末に豊崎光一や蓮実重彦宮川淳も?)が翻訳したものを読んでいた世代で第2次ムーヴメントが80年代後半から浅田彰丹生谷貴志が先導/煽動していたドゥルーズ・エフェクトをキャッチしていた世代だろう。)そして著者はそんなムーヴメントからは若干の距離を置き、自分の仕事に深々と専心しているような、暴力的に言えば「垂直型」の思考家なのだと思われる。(孤独の悦楽はすでにして孤独ではない、つまり孤独の問題はつねにフィクショナル/エフェクティヴだ、これを知っている、ということだろう)・・・澤野雅樹の書物は『記憶と反復』(1998)しか読んでいないし、けっしていい読者だとは言えない。だが先日、酩酊状態で書店の平積みを、斜視もほどほどに歩いていて「アッ」と思い、かの書をそそくさと手に取り、立ち読み30秒、考えること5秒でレジスター(それにしてもレジスターとレジスタンスは関係あるのだろうか?)に直行したのはどうしてだろうか。その夜から書を枕元において1週間ほどかけてゆっくりと、一文字漏らさず丹念に読みこんだのだが、これがとても面白い。難しいことは難しいなりに書かれているのだが、「概念上のパズル」(論理空間でどれだけ整合性を合わせるか)に腐心するわけでもなく、美的文彩を駆使して読者を引きつけるわけでもない。そして「テクスチュアの表面で読む喜びを得る」という体裁のものでもなく、<具体的にわれわれが生きている生>に照らしてさまざまな事例を上げながら、<<それ>を読んだわれわれの生>そのものへと直接的にフィードバック(あるいはショートカット)させ、具体的な個々の身体を気付かせるような(「あっ、これ読んでたのオレだったんだっ」)文の組織の仕方を意識的に採用している。(ドゥルーズはそれを「下降の技術」と呼んでいる)。いい意味で触発的なのだ。そして「ここちょっとわからないなあ。」となると即座にさまざまな事例、ラーメン、スカートのプリーツ、はげ頭を隠すカツラ、シモン・シューベルト、竜巻、エゴン・シーレ、名刺、ケミカル加工のジーンズ、マッハ文朱などが断続的に召喚され、それらの事例を高速度で駆け抜けながら、ドゥルーズの主要概念である「此性(これせい)」「器官なき身体」「欲望する生産」「襞」「差異」「生成変化」などがテンポよく語られてゆくのだ。ここでは個々の概念の説明はしないが、どれもこれも「生きる」ことのみならず、「生きることの(真)の楽しみ」に連結されるような重要な<思考=概念>ばかりである。(そう、考えることは楽しい)。しかし、この書は楽観一点張りであるわけではない。第4章、第5章では著者の(主に現行の日本の教育制度に関する)リアルな憤りが表明してあり、その怒りを<「思考の自由」を抑圧する「思考の公務員」(ドゥルーズの用語)>に差し向け、彼ら「思考の公務員」に対する全面的糾弾の実行マニフェスト(と、僕には読める)へと論を導いてゆく。さらには、その批判的態度は直接「現在われわれ日本人はいかなる社会のもとでドゥルーズを読むのか」という状況把握(前提)への具体的なナビゲートともなるだろう。・・・しかし流行や時流とは関係なく、ドゥルーズとつき合うことがますます楽しく、嫌が上にもポップな体験となるよう、その点も強調されている、ということも再強調しておきたい。

さて、ユリイカ9月臨時増刊号「昆虫主義」に視線をズラしてみよう。澤野雅樹はここで「腐海に生きる巨大ゴキブリを夢見て」(p.181)というテキストを寄せている。およそ3億4000年の歴史を誇る「ゴキブリ」についての意義ぶかい省察がわかりやすく展開されているのだが、一言で言うと「ゴキブリは己自身を何と心得ているか」という問題提起とその解答であろう。「人間の脳は1つ(単脳)だが、ゴキブリの脳は2つある(複脳)」という生物学的真実をして、『ゴキブリ大全』(デヴィッド・ジョージ・ゴードン)や『生と死の自然史』(ニック・レーン)などの名著を援用しながら(有り体に言うが)「人間の限界と可能性」を探ってゆく。・・・思えばドゥルーズその人も初期の仕事では昆虫や動物の記述が目立っていたし、ファーブル自体が後の社会学者やアナーキストに大きな影響を与えている。こういったサブテキストも「ドゥルーズを活用する!」を活用する上で、大きな反射板となってくれるだろう。繰り返すが実にいい本だ。2200円は高くない。22000円の価値はある。





この文章を書いていて、ぼんやりと思い出すことがあった。著者とは一度たまたま遭遇したことがあった。瀬戸内海に浮かぶ佐木島広島県)というところで「サギ・ポイエーシス」という映画のイヴェントがあり、主催者に呼ばれて遊びに行ったのだが、(そのイヴェントを起軸にした雑誌の原稿を頼まれて事前に書いていたのだと思う)、待機場所となっていた佐木島コテージ(鈴木了二設計のなかなか瀟酒な建物だ)の部屋で誰かと談笑していた時だっただろうか、ゲスト参加者で呼ばれていた澤野氏がフラッと感じであらわれ、「これ飲めよ」という感じでコートのポケットからジャック・ダニエルの角瓶を取り出し、差し入れてくれたことがあった。(僕はその時も昼間から呑んでいた、寒かったので暖房代わりにしていたのだろう)。かれこれ10年前の話だが、(この場を借りて)ごちそうさまでした、と言っておきたい。(2009-10-08)