映画ノート 7





■ アニエス・ヴァルダ 『カンフー・マスター!』 その2 





恋愛はどこにでもある。それらはいくらかありふれている。しかし、死に至る恋愛の狂気、それは恋愛そもののからはもはや逸脱した過酷な形態であり、差し当たってありふれてはいない、と言える。ところで狂気としての恋愛、それを映像化するにあたり、プロダクションは、作家はいかなる方法を取るのか。ある種の映画史は教えるだろう。恋愛を過度に演出すると「キッチュ化(紛い物化)する」ということを。キッチュの吸引材、それは視覚中心主義的スペクタルがもっとも観客の内奥部での視覚的インパクトを必要する局面である。枚挙にいとまがない。例えば、男への愛憎から、結果、自身がたったいま使っていたフォークで目をえぐり取るベアトリス・ダル(『ベティ・ブルー』1986)。例えば、暗闇に全盲の男と一緒に暮らし、女も半盲から全盲へ至るという時に、視覚性の愛の剥奪から、それを埋め合わせるように触覚性の相互マゾキズムへと変移させ、ついに自虐と他虐を<論理的/実践的に>一致させる緑魔子船越英二。(『盲獣』1969 ちなみに原作は江戸川乱歩、音楽は林光、監督は増村保造)。




20世紀初頭、いいかえるならフロイト精神分析の幕開けに明るみされた「愛の多形倒錯」が恋愛映画そのものを刺激し、多様化に拍車をかけ、その奥行きを歴史的に作ってきたともいえるだろう。それらは日本映画において(江戸川乱歩の小説がそう呼ばれたように)、「エロ・グロ・ナンセンス」として流通し、近年の団鬼六の『花と蛇』にまで続く地下水脈を形成しているのだ。





付け加えて言うと、「アダムとイヴの神話」を根拠とするキリスト教的恋愛(もしくはプラトン的恋愛・・いわゆるプラトニックラブ)の強固な抑圧的イデオロギー(いわゆる純愛至上主義的恋愛)は、、それらを全面的に蹂躙する思想家、小説家であるマルキ・ド・サド(1840−1914)を産んだのだった。そして、日本がそれを輸入した時代(サドの小説の邦訳の是非をめぐって「サド裁判」が起きた時代、1962年−1987年)において、昭和後期のエロ・グロが復活するのである。




脱線した。『カンフー・マスター!』にもまた、「一般的な恋愛の規範」を脱臼させるような説話的な装置が導入されている。しかし、これ見よがしなスペクタルではなく、あくまでも自然主義的なナラティヴの装置として。・・成人男性が少女に恋慕を抱く、これがロリータ・コンプレックスの典型だとすれば、その逆の女版、つまり、成人女性(ジェーン・バーキン)が少年(マチュ・ドゥミ)に恋をするという成就しがたい物語装置が、この映画の面白さをまずは決定づけているのだ。そしてその中間にいるのはジェーン・バーキンの実の娘、(最近ラース・フォン・トリアーの監督した変態映画でも堂々と主演をこなした)シャルロット・ゲンズブールであり、彼女のいつもながらの危うい存在感が「関係の立体感」を助長させている。





さて、ヴァルダの映画は『5時から7時までのクレオ』(1962)という静謐なモノクロームのドキュメンタリー・タッチの映画を大昔に見たきりで、監督作品の全貌については語るに落ちる。そこで、最近、再び写真家の中平卓馬の文章と写真集をたてつづけに読んでいて、思わぬことにヴァルダの映画『幸福』について書かれていたので、その記述をもとに少しヴァルダ映画の特性を少し考えてみたいと思う。中平卓馬がヴァルダの『幸福』を見たのは1970年の10月のことである。今から41年もまえのことだが、1987年に撮られたこの映画を見ても、彼はまさしく同じことを言ったのではないか、そう思わせるパッセージがあるので下に記しておく。



ところで『幸福』の若い指物師には美しい妻と三人の子供が居る。彼らはウィークエンドには連れだって郊外に出て美しい自然の中で遊ぶ、いわば文字通り「幸福」そのものの生活を送っている。ある日男は郵便局につとめる若い女に会い、当然のことながら寝てしまう。男は妻と女との間にはさまれることになるのだが、そのことでことさら悩んだりはしない。俺は「幸福」だという。
 妻にはじめてそれを告白し妻もそれを認めた日、咲き乱れる花の中で子供たちを寝かしつけて男は妻と寝る。それは極めて美しく、また残酷な、ほとんど凌辱を思わせるシーンである。妻はそのまま池に入って死ぬ。そしてラストは新しい女と子供たちと、またしても週末の一日を森の中でバーベキューを焼きながら過ごす彼の、まったく何も変わらない、仕事があり、家庭があり、私有財産があり、その中で静かに生きる彼の姿で終わる。変わったのは季節としたがって彼らが着るセーターの色だけである。
 この映画は終始一貫美しい。花一輪の美しさ、池の水、林、街の看板、家の中の小さなこまごまとしたしたもの、シーツの白さ、アイロンの光、食事時の皿とナイフとフォークの輝き。そしてなによりも彼らの性生活。それらは実に美しく、ところが美しければ美しいほどそれらはひとつの酸鼻の極みに見えてくるのだ。(『なぜ、植物図鑑か』p,167)





『カンフー・マスター!』もまた、パリの街路とヴァカンス先のイギリスの郊外、そしてそこから離れた(無人島)が舞台装置になっているのだが、この文章で重要なのは、いうまでもなく最終部である。自然の恩恵、そして自然が照らしだす物たちの輝き、何一つ不満のない美しい生活・・・ホテルのロビーの充満した採光、コンドームに水を貯めて作った爆弾、それがほんの悪ふざけによって破裂し、四散する水しぶき。笑い。しかし、どうにも抑えようのない欲情が渦巻き、虚言と妄言がないまぜになった少年の言動と、温情あたたかな成人女性の駆け引きが始まる。成人女性=母は休日だけリセの寄宿舎から帰ってくる娘(娘は父親の近所に住んでいるという設定)に、些細なことでやつ当たりし(ここではバーキンの実の夫であるセルジュ・ゲンズブールロリコン趣味が示唆されている)、娘は娘で「母親が(少年に)モテる」ということに嫉妬の念を隠せず、ついには母と娘の奇妙な不和状態が、少年の詭計したたかな行動に翻弄されていくのだ。・・・バーキンの住む部屋、その内装は美しい。バーキンの首筋とともに美しい。・・・そこには家族の数々の思い出がある。旅行先で買った皿がきちんと台座に乗せてたてかけられ、いくつものドライフラワーが天井を覆い、窓から差し込む光が食卓のワイングラスや果物を照らしている。そしてある休日、母娘の不和もエスカレートを極めたその直後、アップライトのピアノで「ジムノペディ」(エリック・サティ)をそのつたない指先で奏でるシャルロットのうなじも負けず劣らず美しい。





美しい生活。だが、それはなんと醜悪な実生活の裏側に成立していることだろう。中平卓馬が「酸鼻を極める」と言ったのは、いかに醜悪な現実が目前にあろうが、このように美しく撮ってしまうヴァルダの「意固地」に対してであろうか、「美的感性」に対してであろうか。しかし、これは批判ではない。素朴なリアリズムの肯定であり、むしろ前述したようなこれ見よがしの「恋愛狂気」の視覚スペクタル的要素を徹底的にそぎ落としている、いや、むしろ、真の狂気とは、このような単純素朴な、どこにでも転がっていそうな物質にこそ反映されているのだし、そもそも、恋の狂気を描くのに過度の演出などいるのだろうか、いらないのではないか、ということを逆説的に明示しているのだ。再び引用する。





ヴァルダは、ことさら大仰に構えるわけでなく、実に淡々とどこにでもある風景を克明にとらえる。そしてそのどこにでもある風景のディティールこそぼくを戦慄させるのである。(中平卓馬『なぜ、植物図鑑か』p.168、強調は筆者)





<淡々とどこにでもある風景を克明にとらえる>こと。これが意外にも難しいことなのだ。これを成就した映画となると、やはり70年代後半から80年代にかけてのフランス映画(ポスト・ヒストリカル・フレンチ・シネマ)に多いように思える。絵画のジャンルにおいてモデライズして言えば、高橋由一の鮭、セザンヌのリンゴ、マネのレモン、これらはどこにでもあるものを、しかし、どこにもないものに変えてしまった希有な例だ。映画はむろん動くもの、動き、留め、移ろうXなので、キャメラワークこそが、モンタージュこそが、すべての物の<客観的正当性>を徹底的に変容させてしまう、その潜在性の次元があることに疑うものはいないだろう。(そしてさまざまな動画視聴環境によって「キャメラワーク」が貶められていると感じているのは、私だけではないだろう)。かくして<物が語る>次元が到来するのだ。いや、到来する、というのは間違っている。物はすでに語っていたし今もなお、語っている、と言うべきであろう。それらに耳を傾けず、目を凝らさなかった者が、かろうじて、<物の語り・・・想像的な領野においての物の語りの始まり>を、ある瞬間に発見し、続いて<われわれの再凝視>のもとで、それが図らずも想像的なものではない、つまりREALなものである、ということを発見するのだ。「語るのは私ではなく、物が語る」。



強調しておこう。<それ=物>は「私」などという卑小にして粗末な概念とは<無関係に>作動する。ここに一切の悲劇があり、喜劇がある。それはハンマーの一撃であり、落雷であり、ゲリラ豪雨であり、寝耳に水なのである。



もう時間がない。最後に、「カンフーマスター」とはおそらく当時のフランスで流行した、テレビ(テーブル)ゲームの名称である。画面の中の主人公、カンフーマスターが建物の中で空手の技を使い次々にはり倒し、屋上にいるイザベル嬢を助けるといういたって単純なものだ。・・・それにしても映画の中では誰が助かったのだろう?誰も助かっていない。誰がカンフーマスターのように戦ったのだろう?・・・誰も戦っていない。ほんの平手打ちが2、3発あっただけだ。そして、物語が終わり、再び、美しくも、楽しくも、うんざりするような日常がまたダラダラと続くだけだ。そういう時に、また君はまた「フ」と気づくのだ。街路、ショーウィンドウのマネキンは歳をとらない、と。カフェの中、ゲーム画面のカンフーマスターも歳をとらない、と。そう感じている君は歳をとっていく。・・・だが、それもまた美しい現実なのだ。カンフーマスターのギクシャクする動きに会わせて水平移動するテレビ画面、セーヌの川べりを、無人島の緑の中を、バーキンの住む部屋の中を、ゆっくりと、だが、目前の事物を確実に凝視する水平移動のキャメラ。「新たなる凝視」はいつ、どこででも起こりうるのだ。9月になった。