岡崎乾二郎「ZERO THUMBNAIL」展をめぐるソフトな会話♪ その3





▼「さあ、風呂上がりだ。41歳の春だから〜♪なんて湯船で鼻唄歌ってたりして。」
●「でも、絵画が平面の産物だっていうのは成り立たないよね。写真に撮られた絵画を見すぎているからか、なおかつ絵画=平面っていう思い込みが蔓延するのかも。で、唐突だけどフランシス・ベーコンの絵って横から見るとすごいことになっているんだってさ。イギリスのグッゲンハイム美術館で見た知り合いが言ってたけど。」
▼「日本では何点か愛知県立美術館の常設にあるんだってよ。」
●「あら、そう。しかし、写真や映画がその表象面で平面性を誇っている一方で絵画は露骨に物質的だよね。物質性の位相が全然違う。この基本事項に何度でも立ち返る必要がある、そう思ったわ。」
▼「今回のもアクリル絵の具だと思うけど、なんか指ではがしたくなるような突起している箇所がいっぱいあったわね。数々の波頭がアトランダムに干渉しあってできあがっているっていうか、そんな箇所。」
●「そう、そんなに絵画を多く見ているわけじゃないけど岡崎絵画が多くの絵画と違うのは、まずもって身体を触発する。五官の存在を誘発するっていうかね、五官=五感の総動員を迫られているようなある種の「切迫」を促進するように作られているような気がしてならない。作品の受容者が映画と違ってモバイルだからね、そういう絵画の自律的な客体性を考えぬくのは至極当たり前のことかもしれないけど。」
▼「デュシャンの「泉」の前でなぜか、おしっこ近くなっちゃうってことだよね。なぜならそれが便器だって分かっているから。便器に見える芸術作品だとしても、それは、やはり便器だから。」
●「それは笑えるわね。下水道が地下に掘ってあったりして。」
▼「しかし、今回の展示はとりあえずは、リズミックに図形が反復しているキャンバスと、より圧力をかけてランダムな絵の具どうしの「干渉」を強調したキャンバスの二つに分解できるよね。個展タイトルがゼロサムネイルでTHUMBが親指、NAILが釘。」
●「親指と釘で描かれたものなの!?」
▼「ともかく現代世界というのはよかれあしかれ隅々までコンピュータテクノロジーに包囲された世界であって、あらゆる事物は撮られうるし、メモリー化され記録/保存されるという前提が所与の現実として働いている限り、それを疑ってかかるってのは逆説的に作品をコンピュートする(計算する)ことに向けられてしかるべきなんだな。そういう意味でフォーマリズムっていうのは無効化できない。そういう意味で、やはり岡崎作品って強いなーって思うところは、最終的に絵画の物質性とは<画素>には還元不可能な諸力の集まりなんだってことをシンプルに教えてくれることかな。こないだ見た中平卓馬の写真も物質的なんだけど、表面はペラペラの平面だしね。あたりまえだけど、やはりそこは決定的に違うんだ。」
●「だって、バターとイチゴジャムを一緒にトーストに塗って視覚的に「絵になる」かどうか、絵になったとしてそれを写真に撮りたいと思うか、写真として写しても、その味や混ざり具合を伝達するにはどうすればよいか?そもそも伝達は可能なのかどうか?こういう問題機制が絵画の複製性(オリジナルーコピーの二元性)を高めていくわけだけど、これなんか偽の問題の最もたるもので、複数の物質が混ざっている物質性それ自体が果たして何に対してのクリティックなのか、という問題をずっと抑圧してきているような気がするな。」
▼「例えば彼は固有名批判をしているって仮説はどうかな。インターナショナルクラインブルーやキタノブルーなんていう言い方があるけど、一定の既成の色が一般化された上で流通している中で<人の名>を頭にくっつけただけで「なるほど」、とその固有性を納得させることができるんだよ。キタノブルーはアントニオーニレッドに対する批判だ、とかそういうところにまで議論を持っていかなきゃいけないのに。」
●「そうね。2007年のオカザキブラウンは実は2002年のオカザキピーナッツバターブラウンに対する自己批判であり、ゆえに2008年はオカザキピーナッツクリームブラウンによって再自己批判されるだろうとか、そういうことかしら?」(つづく)