●「例えば、一人じゃなくて二人で展覧会とか行って、会場出たあとお茶とかしつつちょっとぎこちない感じで「どうだった?」って聞くのって、自然なことと言えばそうなんだろうけど、ちょっと気まずかったりするな。「どうだった?」って聞くことが同時に「どーでもいいんだよ!このボケ!」みたいな反響みたいなものも必ず伴っている、というか。」
▼「はっはっはっ!!放っといてくれよ!このボケ!みたいな。けど、放っといてくれよ!派は最初から一人で観に行くんじゃないか?映画でも絵画でも。」
●「そうね、見たあとのモヤモヤ感って必ずあって、どう言葉で整理すればいいんだろうってことになるんだろうけど、相手がいた方がモヤモヤが解消しやすいような気がするな。」
▼「それこそ、相手にもよる。」
●「そうね、やばいなー、なんか高尚なこと言わなあかんのかいなー、みたいな圧力感じさせる人もいるし。」
▼「今回はセザンヌっていうだけで、ちょっと構えてしまったところはあったかも。一般的に何をやるにせよ、構えなさすぎなとこはあるから、かしこまったりするのはいいことだ。」
●「輸送費とか人件費とか保険とかあるんだろうけど、展覧会の値段設定ってどういう基準なんだかわからないのよね、厳密には。で、それが漠然としているがゆえに当日券1400円分取り返すくらいのことは考えようとは思うな、謙虚に。タダ券とかもらってたまに見たくもないものまでブラブラ見に行くけど、やっぱり身につかないところはある。すっかり忘れている。それはそうと横浜美術館って丹下健三が設計だったんだね。磯崎新の師匠筋にあたるのかな。」
▼「ふーん、そうか、しかしみなとみらい駅周辺って、まあベイエリアにありがちなアミューズメントパーク的なノリで空間構成されてるんだろうけど、しかし何時来ても海風が強いね。風にさらされるからあんなに背が低いのっぺりした建物なのかな。」
●「じゃあ、本題に入りましょう。私から感想言うと、セザンヌって遠近法に対する執念的なまでのこだわりがあるって思ったわ。」
▼「ふんふん、続けてください。」
●「あっ、遠近法の話いきなりしてもつまんないな。」
▼「え?遠近法つまんない?どうしようっか。」
●「じゃあ、いつもどおり、世俗的な話からしましょうか。そうね、「われわれはアートをリードしているんだ!」って勘違いしている人ってわりといると思うんだけど、実際どこまでつっこんで考えてんだろーか??」
▼「ひとつ言えるのは、もはや抽象画は安心して見れる対象になってしまったってことと関係あるんじゃないかな。小学生たちの絵が近所の駅地下道ギャラリーみたいなところによく貼ってあるんだけど、高学年ともなると抽象画とか超現実主義やってる頻度高いな、って感じるんだよね。ぼくの時代はああじゃなかったなって思うんだけど」
●「やっぱりリアリズムが主流だったな。」
▼「あ、そうかもね。今は子供のおもちゃのデザイン自体がキュビズムの影響下にあるっていうか・・日本人形やフランス人形のリアリティが排除されるかわりにリラックマを過剰に受入れてるっていうか。あ、リラックマももう流行らないか。」
●「一昔前は、中流意識を植え込まれた平均的な家庭のカレンダーがなぜかモネかルノワールだったり、玄関に東郷青児の複製飾ったりっていう時代だった。それも完全に終わったんじゃないかな。」
▼「そうね、今はルノワールでも東郷青児でもむしろゴツゴツして気色わるいんじゃないか?まあ、どーでもいいっちゃあどーでもいいんだけど、ヒロヤマガタもラッセンもかなり排除されてて、<カワイイ主義>みたいな微温性がはびこりすぎている。」
●「そうねー、<モア カワイイ ザン ビューティフル>が主軸よねー。」
▼「ああ、なんとなく美の失墜みたいな現象はあるかもね。カワイイの勝利に対するビューティフルの敗北。もう美のシンボリックな機能が果たせなくなっている。大手の化粧品のポスターなんかはやはり美一本槍なんだけど、どれだけ化粧しても、もとがダメなもんはダメ!みたいなところでなかなか開き直れないのはなぜか?化粧品業界はそろそろ戦略替えしてほしいんだけど。」
●「そこはやっぱりセザンヌ化粧品にがんばってもらわなきゃ。しかしそうね、ジャニーズの顔の歴史にしても、たのきんトリオの時代って3者3様の顔が格付けされていたとは思うんだけど最近のNEWSとかほんと、均質化してるなーって思うな。あれじゃ顔覚えられないよ。」
▼「男の子もそうだけど、今や絶対的な美しき母親像ってのも希薄でこじんまりとしたところでとっかえひっかえられてるっていうか。」
●「古いファンの人は怒るかもしれないけど、例えば20歳の若者が、吉永小百合だったら寝ていい、オレの彼女よりも、吉永小百合とセックスしたい、とかそのうち言い出すんじゃない?」
▼「吉永小百合なんて最初から母親像としては見れないな。なんでだろう?」
●「そうそう、だからアート以前にカワイイ主義がなぜか文化の基底としてあるっていうのは、美の権威失墜と関係ないかしら?当時のサユリストはやはり彼女のことを女性の鏡=代表として見ていたんだと思うんだよ。清楚で愛らしい女性、ま、それはそれで悪くないけど。」
▼「パノフスキーじゃないけど、ヨーロッパの文脈では、美の権威って遠近法としてのシンボリズムが支えていて、美の基準をリードし続けている。だけど国内的にはフレーム文化が失墜して、今は溶解文化的になっているような気がするな。で、吉永小百合とか美智子妃とかに代表される美がもはや機能失調して、美の空虚が露呈されつつあるんじゃないか。それはやはり美っていうのが実体であり、観念ではないということだよ。」
●「でも相変わらず美に対する<崇高>は求められているんじゃない?私はなんで、あんなキツい、しんどいこと態々やるんだろうって、いつも思うんだけど、ワンダーフォーゲルとか流行しているでしょ。あんなマッチョな世界、バカみたいだわ。」
▼「そうね、崇高は美よりも強力かもね。美はフレーミングを好むけど崇高はフレーミングを嫌うっていう性格はあるかも。雷そのものは崇高であっても雷の絵を描く、つまりフレームの中に入れると、美でも崇高でもなくなる。アイアンメイデンのレコジャケみたいになる。」
●「それはそうと、京王井の頭線渋谷駅と東横線つなぐ連絡通路にとうとう岡本太郎の絵が誘致されたね。11月19日だっけ。」
▼「<明日の神話>。あれ、でかいよね。」
●「そう、4コース分の25メートルのブールくらいはある。10個くらいのキャンバスに分割されているのかな。まあ、疲れたサラリーマンが帰宅途中あれ見て、ちょっと元気出るっちゃあ出る、みたいな。」
▼「みんな携帯カメラでバシバシ撮ってる。どうせ、すぐ削除するんだろうに。」
●「フェルメールはもちろん素晴らしいし、セザンヌはもっと素晴らしいには違いないんだろうけど、岡本太郎の実物の絵が駅にかかるっていうのは多少のインパクトはあるよ。」
▼「本屋の平積みで太郎本はよく見かけるね。「明日への希望」みたいな若者啓発本とそう変わらないやつ。」
●「太郎は言説主流よね、大きな回顧展やらない。でも、だからこそ、ああやって巨大なタブローを真近で見れるようになったってのは多少意義深いことだとは思うな。」
▼「それはそうと、2001年あたりに、『芸術はなぜ爆発するのか』っていう論文を書こうとしていた時期があって、爆発的なわかりにくさを誇るアレクサンドル・コジェーブの『ヘーゲル読解入門』とノルベルト・ウィーナー『人間機械論』と、あとジャン・プイヨン編『構造主義とは何か』と並行して読んでいた時があるんだけど、コジェーブの授業に岡本太郎はラカンやカイヨワなんかとともに出席していた。」
●「芸術家志望のパリ遊学ね、今もパリ幻想ってあるのかな?」
▼「どうだろうか。シュルレアリスムと岡本太郎はもちろん関係あるけど、構造主義と岡本太郎は関係ないよね。爆発なんて概念は構造主義わかってないと言えないよ。あらゆる爆発は構造的に爆発するんだから。」
●「ウォホールのイネヴィタブル・プラスティック・エクスプロージョン?」
▼「しかし、岡本太郎の縄文回帰の必然性ってどこにあったんだろうか。」
●「ともかくチマチマしているのがいやだったんじゃない?父親の一平のマンガとかは似ても似つかないよね。」
▼「母親の、かの子のカラクテール(キャラクター)の方が近い。」
●「それはそうかも。わたしも大阪にある太陽の塔たまに見たいなーなんて思う時あるけど、でかけりゃいいっていう発想は近代的なファシズムと繋がりやすいよね。」
▼「隅っこの方でチマチマやるっていうのが、案外嫌いな人も多いんだよ。ぼくは、隅っこの方でいいです、みたいな謙虚さはかなり好きんだけどな。しかし、むかし柄谷行人がニーチェを引用してよく言っていた<遠近法的倒錯>っていう指摘を踏まえつつ縄文時代のシーン撮るんだったら、やっぱり太陽の塔の下でっていうのはあるな。<弥生ー縄文>のイデオロギー的性質が古代っていう時空間を保証する二元論性に通じているのだとしたら、大阪万博あたりにおこった<日本>という同一性を規定させるコンセプトがある種の外圧として起こったっていうことを、やはり指摘する必要があると思うな。太陽の塔のある公園の舗道が酸性雨なんかで穴ボコだらけになっているらしいけど、それこそ縄文土器みたいにスカスカになっているんじゃないか?あっ、ストローブ=ユイレも、こういうこと考えてんのか
な。どうだろうか。」
●「そうね、・・・しかしセザンヌはどこへ・・・」
▼「ようするに、デザインとアートの癒着がデザインを良くすれど、アートをダメにするっていう構図が拡大しているっていう感じかな。世俗との連続性が確認できるだけで抽象はたんなるデザイン環境に奉仕するだけの記号に堕した。端的に言うと。」
●「エクセルシオールっていうチェーンのカフェがあって、よく壁にマーク・ロスコのリトグラフが架かっているんだけど。」
▼「そう、ロスコの思考とはなんの関係もなく見れてしまう。」
●「モンドリアン柄のワンピースは?」
▼「モンドリアンと何の関係もない。」
●「アートが世俗の需要をつくっていくことは、消費記号としてアートは流通可能なんだってことを端的に示している。ゆえに、マーケティング上、必ず抽象は具象=商品に転落する潜在性をかかえている。したがってモンドリアンのワンピースは具象であって抽象ではない。」
▼「そして抽象の基礎としてのセザンヌは?」
●「絵画が抽象と具象の境界に留まることが可能だってことを示した。」
▼「ああ!セザンヌ!1809年プロヴァンス生まれの偏屈親父は」
●「お酒でもいかが?」
▼「人間嫌いの偏屈親父は」
●「ペルーノのトニック割りでいい?」
▼「高校の同級でもあったエミール・ゾラに小説『制作』のネタにされたあげく」
●「レモン絞る?それともライム?」
▼「パリの堕落に目を背け、ゾラとも絶交し、田舎に引きこもり、終生を送る」
●「できたわよ。」
●▼「それでは、セザンヌに、かんぱ〜い!」カシャリ
▼「じゃあ、このへんで、セザンヌにおける遠近法への固執を君に語ってもらおうかな。」
●「そうね、セザンヌは古典的な遠近法を解体したってよく言われているけど、正確には解体ではなくて、哲学者ジャック・デリダの用語を借りると、脱構築っていう感じよね。」
▼「遠近法の内部に留まって遠近法を解体しているっていうことね、それはそうなんじゃない?」
●「ただ、その脱構築を解体って言い切った時に出てくるフィクションってあると思うな。脱構築は内側から、解体は外側から。セザンヌは遠近法の内部に留まって、あれこれいじくっている感がある。それは、やはり脱構築っていう概念の方がふさわしいと思うわ。」
▼「そうね、キュビズムや抽象表現主義にまで与えた影響はそのフィクションの飛躍体だった、と。」
●「例えば、ダリやエルンストあたりまでは露骨に遠近法が残っているけれど、それこそポロック、ロスコのあたりは遠近なんていう概念を多少でも気にしつつ描いていたのかというと、」
▼「そうは言えないよね。」
●「フェルメールなんか見ても、まず遠近法ありきで、光の変化をシャットアウトしつつ集約する一点の穴を開けた単一の箱に閉じ込めつつ、遠近の実在性を省察するためのカメラ・オブスキュアを使用して、パースを引くという技法を導入したんだと思うけど、セザンヌの時代、っていうかセザンヌその人は、カメラ・オブスキュア自体を脱構築してしまったっていう感じはあるな、」
▼「そうそう、あらかじめ、写真の原理を超克しているっていうか、無効にしているっていうか。それはそうとセザンヌの最初の大掛かりな個展、エクス・アン・プロヴァンスの石切り場なんかの絵を量産するための遠足によく出かけていた時期に、ヴォラールっていう人が150点集めて、個展を開いたのよ、それがセザンヌ56歳にあたる1895年。」
●「そう、1895年はリュミエール兄弟がパリのグラン・カフェで『列車の到着』を上映した年よね。つまり映画創世の年と、セザンヌのデビューっつうか、大掛かりな個展がひらかれた年が同じである。」
▼「『列車の到着』っていう映画はまさに遠くから列車がやってきて近くに到着するっていうだけの純粋遠近法のシネマトグラフであり、セザンヌはその年に遠近法の脱構築の試みを公にした、と。別に絵画の肩を持つわけじゃないけど。」
●「まあ、しかし、セザンヌのどこが映画的かっていうと、絵画用語で言うムーヴマン、つまり、動性の導入なんだよね。フェルメールだと、まだまだヴァ二シング・ポイント(消失点)によって絵を見ている主体が絵画に吸い込まれるっていう感じがするんだけど、セザンヌまで来ると、対象が手前に飛び出てくるっていう感じもする。だけど、そのムーヴマンの質がまったく違うんだよね。」
▼「そうね、視点をシフトさせる、ズラさせる仕組みって色調や色価の調整によってかんたんにできるんだとは思うけど、セザンヌの絵を見る方がかなりエネルギーを要するっていう感じがするな。そのエネルギー態こそが蒸気的な熱っぽさをタブローに逆照射させる。エドゥアール・マネも視点のシフティングっていう意味で言うと、そうとう複雑なことやっているけど、視線と絵画表象との間におこるエネルギーの質感がまったく違うんだな。」
●「いや、しかし、絵画の蒸気性っていう表現は面白いね。初めて聞いた。」
▼「いや、ぼくも初めて言ったな。まあSF小説でもスティームパンクっていうジャンルがあるくらいだし、まあ、いいんじゃないか。」
●「そうそう、空気遠近法っていう言い方あるでしょ。」
▼「まあ、大気遠近法ともいうね、エアリカル・パースペクティヴね。」
●「単純と言えば単純な原理なんだけど、色価において、暖色を手前に出すと近くに見えて、逆に寒色が後退して遠くに見えるっていう、この二元論の使用において遠近感が出せるっていうこと。」
▼「それで?」
●「ドラクロアがこの手法を最初に編み出したとは言われるんだけど、私が遠近法脱構築主義者としてのセンザヌ、って言った場合、主に1898ー1900まで描かれたサント・ヴィクトワール山の連作なの。それらは空気遠近法をまさに脱構築しているとしか思えないのよね。色価によって遠近が決定されている絵画は完全につまらん、と、言い切っている感がある。」
▼「かの著作『セザンヌの構図』(1943年/邦訳初版1972年)のアール・ローランもそのことを言いたいがためにあの気違いじみた考察しているじゃなかろうか。」
●「アール・ローランって特権的よね、セザンヌの没後、彼のアトリエに住みつきながら制作していたんだから。」
▼「まあ、しゃれこうべがゴロンと置いてあるセザンヌのアトリエに住み着いたんだから、あのくらい狂ったことやって当然、と言うか。」
●「まあ、しかしプレ-ルネサンス期、ジオットやフランチェスカの時期でも、空気遠近法を導入していたとは思うんだけど、それは目線を水平に保ち、対象を安定させるために用いられていたんだとは思うな、ジオットの人物たちの凝固感は水平と垂直をガシッと決めないと、表せない。」
▼「まあ、しかしジオットは遠近法をわざとズラしている感もあるし、光に洗われたようなフレスコ画の淡色の世界でいかにして遠近を出しつつズラすか、という方法論を抱えていたんじゃないか。」
●「それはそうと、今回セザンヌでオッ!と思った絵画ってあった?」
▼「ぼくは『宴の準備』ってのが気になったな。prepropotion of banquet。1870年頃の作品。これは画集にはなかなか入っていない作品だよ。」
●「どんなのだっけ?」
▼「セザンヌの絵をあえて暴力的に分類すると、セザンヌ夫人像に代表される人物画、リンゴやしゃれこうべなどの静物画、あとは男や女たちの水浴画、そしてサント・ヴィクトワール山の連作ってことになるとしたら、そのいずれにも属さない作品じゃないかって思わせる作品だったな。」
●「ああ、サーカスのテント小屋みたいなのが中心にあって、一応シンメトリカルなんだけど、いったいどこが宴の準備なんだかさっぱりわからない。」
▼「そうそう、セザンヌは自然に即するあまり、わざと輪郭線を描かないけど、あれだけ事物の輪郭を排している作品はなかったような。人物か物体かテントの影か、いったいなにがなんやらわからない。度のきつい老眼鏡かけて見ても、あんなにぼやけない。穿った見方だけど、あの作品がサントーヴィクトワール山の連作に直結していったんだと思うな。」
●「セザンヌは主題主義のように思えて実はまったくそうではない。」
▼「たしか、自然に帰れ、と言ったのはプレ-フランス革命期のジャン・ジャック・ルソーだけど、自然との連続性、連続性そのものをキャンバスに定義しようとする途方もない試み、それがまず主題や方法論に先行しているのかなって思える。」
●「絵画制作が世界ー自然とキャンバスを結ぶ媒介なのだとしたら、制作行為即媒介というふうに、合理的に直結させるのが一番はやい。しかし、その直結の段階で常に瞬間に忠実であるばかりに常に分裂してしまう。私にはこう見えたけど、キャンバスに筆を着地させたとたん、もはやこう見えない、っていうわずかな時間のズレに忠実になると、その分裂を最初から抱え込むことになる。その分裂性に対する自覚が近代絵画の真の近代性っていうことであり、セザンヌにとっての真の自然になるんじゃないかな?セザンヌはキュビストたちに影響あたえたから近代絵画の父なのだ、とかそんな呑気な話ではない。」
▼「今回は、安井曾太郎や岸田劉生などのJ-セザンニストの絵画もたくさんあったけど、どうだった?」
●「まったくもって亜流の域を出ていないって思ったわ。どこか趣味人の絵に堕しているっていうか箱庭的っていうか。例えば安井曾太郎の『ターブルの上』(1912)にしても、やはり輪郭線の虚構を信じているっていうきらいがあって、リンゴにしてもカボチャにしても、ぼやけた感じではあれ黒く輪郭を完全に囲ってしまっている。セザンヌはリンゴという一般名詞を描きたいんじゃなくてリンゴAとリンゴBは確実に違うっていう確実性を描きたい、つまりリンゴ1個1個の単独性こそが<これは、まさに、これだ>っていう事件性、事物を事物たらしめている事件性なんだっていう唯物論に対する量子力学的信念を基礎にしているのに対し、J-セザンニストは、そんなセザンヌの理論的態度はまったく無視している!って思ったな。」
▼「セザンヌの子供たち、といわんばかりのパスティッシュが目立ったけど、まあそれだけ当時のセザンヌ・インパクトはあったんだろうね。」
●「アール・ローランの『セザンヌの構図』の邦訳版に白樺派の武者小路実篤が献辞をささげてるんだけど、「私には理解不能だけど、これはいい本には違いない」とか素っ頓狂なこと言ってる。」
▼「加えて言うと、岡崎乾二郎と松浦寿夫の対談集『絵画の準備を!』でセザンヌは大きく取り上げられているんだけど、先に触れたアール・ローランの『セザンヌの構図』を批判しているのね。ローランは単純に言うと、セザンヌ絵画の歪みを視点の複数化の帰結だと定義しつつ、ダイアグラム化しているんだけど、歪みを歪みとして盲目的に前提しているから、つまらないって批判している。タブローの平面性を平面として固定した瞬間に出てくるフィクションだよね。」
●「ダイアグラムって言い切った時に出てくる平面性もあるんじゃないかしら。」
▼「どういうこと?」
●「ダイアグラムを時間化すると、例えば電車の時刻表もダイアグラム、いわゆるダイヤって言うよね、あれなんか一見複雑なように見えるけど、結局サンボリズムっていうかひとつの象徴秩序に還元されちゃうんじゃなかろうか。電車の運動が象徴秩序の内部での話である限りにおいてのっぺりしたものになる。衝突の回避を単純計算でやっているんだろうけど、どれだけ異物の介入を阻止するかってことでしょう?」
▼「うーん、なんだろう、わかりにくい話だな。」
●「ダイヤモンドのカットの仕方でも、あれは象徴秩序でしょう?」
▼「うーん、もっとわからん。」
●「複数の視点から見ても輝いてます!みたいな。それは象徴機能なのよ。電車のダイアグラムも特急、準特急、急行、快速、普通の複数の視点から見て、これしかない!っていう解答が出る。しかし、それはやはり閉じられた体系でしかない。どこかに遠近法があるわけでもなく、虚焦点があるわけでもなく。」
▼「まあ、セザンヌの絵は象徴秩序からはほどとおいよね。」
●「だから『セザンヌの構図』は統一的な原理を前提して書かれている。まあモティーフの実写真と比較しながらあーだ、こーだ言っても、リアリズムを基礎において単純な比較を言っているだけだから、つまんないといえばつまんない。」
▼「ジョワシャン・ガスケの『セザンヌ』(1920/邦訳初版1980)の方が面白いよ。」
●「与謝野文子さんが訳したやつね。」
▼「そうそう、当時テープレコーダーあったのかな、後半にガスケによるセザンヌのインタヴューが掲載されていて、ほんと、画家はヤケクソ感丸出し、鬼気迫る感じであれやこれや言ってるんだよ。まあガスケは文学者、詩人でもあり、その誇張された文体が後のセザンヌ研究者を怒らせ、酷評された本なんだけど。」
●「そうそう、ガスケとセザンヌが一緒にルーブル美術館へ行って、一枚一枚の絵についてセザンヌがコメントしていくくだりなんか面白いね、セザンヌが脚立から転げ落ちて守衛に囲まれる、とか、彼はひとりで興奮して、自分に酔っている、とかシナリオのト書きみたいなテクストも入っていて、ほんとに生生しくセザンヌを伝えようとしている。やはりガスケの『セザンヌ』を読むと、ローランの『セザンヌの構図』がいかに構図的なセザンヌしか伝えていないかがわかるよね。」
▼「構図から破綻しているセザンヌがセザンヌの出発点であり終着点だった。」
●「セザンヌが古代ギリシャの哲人、ルクレティウスの『物の本質について』の愛読者だったっていうのはちょっと納得したな。あと、物語嫌悪、これはすごい。」
▼「晩年、テーブルにポツンと置いてあるしゃれこうべを素っ気なく描くっていうところに最終的な飛躍があって、近代的なヒューマニズムとか大きな物語、そして大文字の宗教をハナから信じていない、完全に切断したっていう感がある。しかし、セザンヌ輸入の段階で白樺派が大きく曲解して、無数のJーセザンニストを生み出したっていうことになるのかな。」
●「Jは純情のJでもあり情緒のJでもある。武者小路実篤の野菜の絵なんかに受け継がれているような、」
▼「まあ、しかしセザンヌにしろ、ゴダールにしろ、神が地上に産み落とした150年に一人の傑作っていう感じがするな。まあ適宜にどの作品が良いとか悪いとか言うけど、まずは良い悪いを超えた魅力がある、と言わねばならんな。」
●「今回は<こんにちはセザンヌ>っていうことで、長々とおしゃべりしたけど」
▼「最後にガスケの『セザンヌ』284ページより、ポール・セザンヌの言葉を引いておこう。」
●「ーーー砂糖壷には表情がない、魂がない、そう思いがちです。でもあれだって毎日変わるんですよ。あの紳士たちにはうまく接近してご機嫌をとることを知らなきゃダメです。あのコップたちやあのお皿たちはお互いにおしゃべりをしています。尽きぬ打ち明け話とか・・・花は断念いたしました。すぐに枯れてしまう。果物の方が忠実です。肖像画を描いてもらうのを喜びます。色あせてゆくけどご免なさいと、まるであやまっているみたいですよ。果実のいろいろな香りとともに、果実の観念(イデア)が立ちこめます。いろんな匂いを発しながらこっちにやってきては、別れた田園の話をしてくれたり、養分を与えてくれた雨や待ち伏せしていた暁の話をしてくれる。美しい桃の肌や老いたりんごの憂鬱を、果肉のようなタッチでまわりから捕えてゆくと、桃とりんごが交換しあう光の反射の中に、私は、どちらにも浮き世を捨てた生暖かい陰影や、同じような太陽への愛情や、同じような露の思い出や、ひとつのみずみずしさを垣間見る・・・われわれはなぜ世界を分割するのですか。われわれの利己主義の反映でしょうか、なんでも自分たちの使用に向けたいわれわれです。日によっては、宇宙はひと流しでできていて、人間の観念のまわりを舞う光の反射の、反射の空中の川に思えます・・・。プリズム、それはわれわれが神を知る最初の知り方です。われわれの真福七端だ。永遠の大いなる純白の天の地理学、神の金剛石(ダイアモンド)に満ちた地域・・・アンリ、君にはぼくが狂ったように見えるだろう?」
「われわれの絵画、それはね、手探りで進む夜、夜な夜なさまよう夜だ・・・美術館はプラトンの洞窟である、戸の上にこう彫らせましょう、画家は入ることを禁ず。外に太陽あり、と。」
▼「いや、なんとも美しいパッセージだね。まあ20世紀映画が真にモノを見させるのではなく、真に見させるのをことごとく遅延させる機能をその内にもってしまった、ひるがえって言うと、絵画制作、もしくは絵画鑑賞の本来あるべきであろう<充実>をどこかへ追いやったって言えるかもしれないね。だって映画作家が赤、と端的に定義するところをヴァーミリオンだの朱色だのなんちゃらレッドなどと、そんなことで画家は悩めるんだから。」
●「でも、化粧品、ファンデーションや口紅ひとつとっても色のグラデーションはすごいよ。ほんと悩ましいくらいあるんだから。」
▼「現代社会におけるセザンニズムの啓蒙装置っていうのは女の唇の上に活きているのかもね!なーんて。しかし、マキアージュのラスティングクライマックスルージュだけでも12色ある。凡庸な映画人に言わせると、全部赤だっつーの。」
●「しかし、成分に入っているヘキサヒドロキシステアリン酸ジペンタエリスリチルってどこでどういうふうに感じればいいのかな?難題だよね、これ。」