2008年後半






■1

体は動く。必要に応じて、あるいはそうでない場合も。日常の局面において、とくに人といる場合に、体が動くことに、より敏感になる。それは見られ、感じられることとして身体が像を結んでいるだろうから。手の位置、目線、口の開き具合。足を組む、またはその時足を組んでいいのかどうかの判断。足のしびれに応じて組みかえることの必要。それが少し遅れれば、もう足はしびれて硬直している。しびれがひいてゆくまで、足はブラーと垂れ下がっている。これもまた身体の動き。このように、体の動きに敏感でいられる場合、日常における身体は身体表現にまではいきつかない。/2008年後半は演劇をわりと観た。かねてから演劇を見る習慣がなかったのだが、これも必要に応じて。思ったのは、舞台上の出演者の声量が常に大きくなければならない、この強制力が働いているのではないか、ということだ。ここは小さな声の方がより自然だし、より現実的だ、と思えるシーンでも役者は大きな声を張り上げていた。ワイヤレスのマイクを使わないのは反演劇的装置なのか。/秋頃、三鷹市の芸術文化会館で観たものは出演者によると20代後半の人が演出していたそうだ。大文字の舞台に対する反感があるのだろうか。ポップ・アイコンからのやたらな引用、しかも瞬時に忘れられていまうだろう、流行物からの引用。演出家-劇作者にはもう語るべきネタがないのに無理してやっているのでは。かといって、ギリシア悲劇をやる必要も感じないのだろう、ブレヒトベケットなど、おそらくは脳裏をよぎったこともないだろう、そんなことを思う。これは演劇のコンペティションで入選したもの。三鷹市はこんなに、つまらない演劇に出資しているのか。演劇は水物で、記録されえない。一時的な祭りで複製不可能だ。そんな甘えから水物の娯楽文化に堕してしまう。そんな愚痴が出るが仕方ない。/突然、以前長編映画に端役で出てもらった人からメールをもらい、随分寒くなってからだろう、杉並の地下にある小さなスペースに行った。二人芝居の予定だったが、森桃子さんの一人芝居になった。行けば本当に一人だった。一人であれだけの台詞を覚え、客の前で披露するのは、どんな気分なのだろうか。体はのびのびと動いている。表情がコロコロ変わって面白いが、これもまた声量が一定的に大きい。どうしてだろう。ジム・オルークの静謐な音響が十全に活かされていない。舞台はシンプルだ。正方形のステージに赤い毛糸がぽつねんと置かれ、それだけを使い、展開してゆく。カフカ的とも言えるし、奥行きなさそうでありそうな、ファンタジックな内容はまずまず面白かった。楽屋で「映画は完成したの」と聞かれ、「女優に逃げられたが、まあ近々完成させる」と答える。「森さんも男優に逃げられて一人芝居になったのか」と喉元まででかかったがやめておく。そういえば、今年の春あたりだったろうか、彼女は青山スパイラルホールでコントをやっていた。真緑の子供っぽいカーディガンを着て。その時は招待券をもらって行ったので、花と酒を差し入れた。舞台がはねて「つまらなかったでしょ。」という風に渋い顔をされたのを覚えている。/春夏は短編づくり、ナンセンスSFとか、シュルコメディなどと言い、出演者の説得にあたっていた。はじめて出演者に高校のセーラー服を着てもらった。西日暮里の谷中墓地のロケは良かった。そう好きな映画ではないが、ヴェンダースの『東京画』そのままの墓地。スタッフ・キャストのみなさんありがとうございました。/秋から長編の準備。12月半ばに撮り始め、全体の10パーセント撮れた。舞台女優を使い、映画を自作自演することに熱中しているおかしな舞台男優を使っている。この頃から演劇人とのつきあいがエスカレートし、面白くなってくる。「スクリーンは女性的で舞台は男性的だな」との思いが頭を過らないでもないが、演劇人アレルギーが、どうしたことか、なおりつつある。去年か一昨年か、もう忘れてしまったがバイト先の女性に自主映画の上映を誘われて新宿御苑前に赴いた。短編だったが「フォークナーの『八月の光』を読みなおして、長編にすべきだ」とその作者に言った。その作者が今回の主演。ジュネ全集第一巻を貸している。「あれ、ホモ小説じゃないっすか。」/東京は見かけ倒しの誘惑が多い。きれいなお姉さんも多いし、美しい若者も多い、何でも手に入る?そうでもない、そんなことを話す。晩秋だったか、大学時の友人と赤坂で会い数時間過ごす。彼女もバツイチ。私もバツイチ。バツイチ同士で話すのは初めてだ。うんざりしない、どんよりしない、と心がける。彼女は自分が食べているお菓子をボロボロこぼしていた。どこかの、おばあさんみたいだ、そんなことを思う/数少ない仲間の一人、画家の方と2009年は勉強会でもやろうか、という話。物と霊と映像についての思い巡らし。参考にコナン・ドイルの心霊研究やW・Bイエイツの幻想録をパラパラと読む。/考えつつ納得したこと。やっとのことで、この歳になって物語を語りたいと思えるようになってきた(どうしていったい、たいした経験もないのに、皆は物語を語れる、語りたがるのだろう、とよく思っていたし、今でもそうだろう)。面白い話は作ってきたつもりだが、書き上げたとたん満足してしまい、それっきりだった。それでは物語職人になってしまうし、必要な情報を入力したら最大公約数的に受ける「物語」を出力してくれる「機械」にだってできるだろう。(まともに読んだことはないし、物語とはいえないかもしれないがハーレクイン・ロマンスは実際ハーレクインロボみたいな機械が書いているように思える)物語を語る必要性、欲望。個体差があるのだろう。ゴダールが『勝手にしやがれ』を撮ったのは1959年だったか。たしか「最初の長編には何もかもをつめこもうとするので大変でした。」というようなことを言っていた。私小説と物語の中間地帯。/見直した映画、『鰯雲』。成瀬巳喜男の映画の中では一番気に入っている。山田五十鈴主演の『女一人大地を行く』重要作。『魚影の群れ』。こんなに野蛮なカメラワークだったか。『ロープ』。20代の頭に、はじめて見た時はカメラワークをカメラワークとして見ていなかった。あと陽気なパゾリーニ映画『アラビアンナイツ』『カンタベリーテイルス』『デカメロン』など。/買った本、『きっかけの音楽』『聖-歌章』『ゴダール マネ フーコー』『ZERO-THUMBNAIL』これは画集。クリプキウィトゲンシュタインパラドックス』など。あと、三留理男編『大木よね〜三里塚の婆の記憶』は、古書店にもないので図書館で借りてきてまるまるコピーした。折口信夫が好んでやったように、自分で表紙とカバーを作ってみよう。あと佐々木孝次の本を古本屋で見かけたら買う癖がついている、どうしてだろうか。/まったくもって一人暮らしは気楽だ。ケツを叩いてくれる人がいない分気楽なのだ。で、自分で自分のケツに発火しなくてはならないとなると、又これに時間がかかる。


■2

およそ天体の運動からして、周期的予測の上に成り立っている。だが、冬の到来、あるいは終止がその日付を持たぬ以上、冬の輪郭は時制においていささか曖昧である。ゆえに冬はその全体を持つことがない。その非ー全体性、それが季節が季節であることの所以であろう。冬、われらの表象は、マフラア、コート、手袋などの有無を讃えつつ、冬の風々を待ち受けているばかりだ。あの女の、あの男の荒れた唇、しわがれた声、ひびわれた手の甲を明確に時に刻むために。そして夭折した死人がふたたび地上に姿を見せるように、雪が舞い降るのをわれらが抱きしめるために。乾ききった空気、冬の、自然音響の、自然光が映す明晰な世界を再び奪還するために。火は冬に埋没しない。冬の明晰さよ、お前は火が燃え立つのを待っている。/「ところで季節、はめぐるものではない、めぐるものが季節なのだ、」1月2日の晴天下の川べりでそう呟いてみると、季節とは未来永劫、それは風車のごとく、回転を止めないもの、生成の拍節構造、その隠喩になるだろう、どのみち、あの春と名指される季節がやってくるだろう。お前の冬は言う、「それを冬は知り抜いている、だが春もまた冬と同じように同一の輪郭をもたない。日付を欠いた季節、とは日付そのものよりも遥かに美しいのだから。」むしろ、季節は気付いた時に訪れている、と言った方がいいのかもしれない。コギトのデカルト-方程式のパスカル-幾何学スピノザの宇宙的原理、惑星の(複数の)力、われらはそれを享受する立場を放棄しないしでいるし、そもそも放棄することはできない。だが、例えばなんでもいい、お前が裏ぶれた舗道で一本のタバコを吸い終えた時や、ひとつのルージュを引き終えた時、確実にそれが天体的原理に及ぼしうるXを理路整然と咀嚼する、あるいは、観念として思考する、あるいは流れるように詩化することができるのなら、それを全面的に拒むものなど、どこにもいないはずだろう。季節へ反感、憎悪は、この一切合財の物理の観念化から始まる。しかし「残された自由の名のもとに思考が許されるのなら、季節、などというおよそありふれた隠喩を使うべきではなかった。」お前は思う。なぜなら、お前が一個の揺るがぬ季節でありつづけるのなら、酷寒と灼熱は等価であろうから。「ゆえに季節はない。ここには水の、あるいは熱の闘争しかない。」(頭脳をめぐるアルコールの熱、それを一気に(!)冷やす冷水のシャワーを思い出そう)。繰り返そう、再び繰り返そう、「お前を取り巻く季節などはない、なぜならお前が季節なのだから、そういったconviction(信念/確信)を大地や大気に刻み続ける者たちのエチュードを何度でも始めよう。低温火傷、冷たい熱とは語義矛盾ではないのだ。あけましておめでとう。