岡崎乾二郎「ZERO THUMBNAIL」展をめぐるソフトな会話♪ その2






●「類似系が反復しているって言ったけど、これもクレーがよくやっていたわね。」
▼「絵画制作とは別に線の実験っていうか線のリズムのヴァリエーションを描きまくって訓練めいたことをやっていた。それはバウハウス叢書から出ているクレー本にまとめてあったな。」
●「それはそうとあなたはどうだったのよ、今回のは。」
▼「一番気になったのは個々のキャンバスの高さが微妙にバラバラだったことかな。もちろん水平はきっちりとってあるんだけど、高低がバラバラに設定してある。同じ高さかなーっと思っても、本当に微妙にズレているんだ。」
●「まあ、いつもながら形式面から見て行ったってことかな?」
▼「そうでもないよ、個々の作品を見た上でそう思ったんだ。絵画を注視している意識をどこまで分解して見れるかってことだよ。見ている最中は、高低は気にならないけど、なんかモヤモヤしたモノ、というかモノ自体として必ず対象化されるようになっている高低のバラバラさ加減を同時に見ているっていうか。大昔のことだけど、京大生がやっていた雑誌のインタビュー記事を読んだことがあって、高低に注目しつつキャンバスをプレザンスするってことはひとつの系列性の実現であり、セリーAは床下から100センチ、これを3つ、とかセリーBは50センチ、これを5つだとか、そうやって恣意的に算出することによって、個々のキャンバスを系列化した上でモンタージュできる、それは映画と同じ原理なんだって言ってたんだ。そこだけ妙に覚えているな。」
●「ほう、しかし、今回のはセリーは実現されずに個々のキャンバスが自律した高低をもっているっていう意味ではモンタージュ不能なんじゃない?」
▼「1つのキャンバスを1つのカットだとすればモンタージュ可能だよ。」
●「それにしても、かつての大版サイズは茶系色が基調色で、こんなクソミソかつ、建築的なラジカルな描き方があったのか!って感じだったんだけど、端的にカラフルになったよね。」
▼「そう、前のは計算づくのウンコっていうか、いかなるデザイナーでもウンコをする時にウンコのデザイニングなんてしないのに、それをあえてやってるっていうか。」
●「<もし絵の具がなくとも、私は自分のウンコで絵を描くだろう>と言うピカソに対して、<それでも、機械仕掛けの肛門がいりますよ、先生、って言い返すフォーマリスト岡崎乾二郎。」
▼「そして、カメラがなくとも、私は念写で映画を撮るだろうって言うゴダール・・さっきの話に戻るけど、音楽に喩えていうなら、何回も何回も聞いているはずの曲なのに、50回目に聞いて初めて聞こえてきた音って実際あるんだよ。あれ?こんな音バックに流れてたんだ!って言う。」
●「さっきの話とどこが関係あるの?」
▼「あっ、関係ないかも。」 (つづく)