メモ 6



■ 編集

今回の映画は、部分的ではあるが、ジョナス・メカスの編集方法を参考にしながらやっている。(『時を数えて砂漠に立つ』あたりか)。メカスは自然を近接地点からなで回すように撮り、撮ったものをみじん切りのような細かいカットに分解し、また別の自然を同じようなやりかたで撮ったものと繋いでいた。自然Aのセリーと自然Bセリーが微小時間単位で編集され、それらの映像が意味をなさないまま暴走する。この「非−意味性」はありていに言えば「網膜に訴える映像」であって、心や意識に訴える映像ではない。しかし、「網膜性」と言い切ってしまったとたんに逃してしまうこともあるだろう。(多くの実験映画が陥っているように)「網膜−感覚」に「映像」を着地させることは方法論上、簡単である。(というよりも、方法論の概念化をあらかじめ無効にしている)。今回僕が考えているのは「網膜−情動」というもうひとつの捉え方を提示することであり、そこに「非−意味の完全性」を見ても、見切れないという格好のものだ。うまくいっているかどうかわからないけど。


■ 編集

一日中編集していた。今日は蒸し暑く、PCのオーヴァーヒートがかなり心配で、2時間やって1時間休憩することにして、それを4回繰り返した。「指先と目を連動させてながら操作してることって結局アナログやん」としつこく思う。結局、編集上の「このカットはここまで」という判断にはたいした根拠がない。(おおかたは美学的根拠に依拠しているのだろう)。そして、こういうことを無前提にして、やっているとかなりつまらないことになることもわかっている。今回は乱数表を用いて(ベタな言い方だけど)偶然性を導入している箇所が4つある。偶然をコントロールする(創出する)ことは、偶然に甘えない(隷属しない、支配されない、管理されない)という自覚を促す。食事はクミンとオオバを刻んだもの、あとは塩を少々ふりかけて、オリーブオイルだけでまぜたパスタ。動かないと一日1食+ビスケット5枚くらいで済む。あとはカンパリをオレンジジュースで割ったものを断続的に呑んだ。(2010-07-05)