ランダムノーツ 8



ランダムノーツ 8




・われわれは現在、言文一致を意識しながら話したり、書いたりしているわけではない。そういう意味で明治期に推進された言文一致政策とは現在時において意識/無意識からかけ離れた、あるいは対象として認識しえない「物自体」のようなものだと言える。それは時間と空間を超越しているかのように見える。・音声化されない文字言語が多数にあり、それらのデッドストックが不可視的量をともなっている限りにおいて、音声と文字は量的に非対称の関係にある。一方で、文字言語化されえない音声は常に交換に晒されている。「おはよう」は他者による「おはよう」という返事(おはよう対おはようの1対1対応)と交換される限りにおいて、「おはよう」の実在的な価値が明確化される。音声言語はまず何よりも他者と交換される、その潜在性の豊かさ(あるいは確率的な高さ)において使用意義を確認することができる。その意味で、文字言語の交換、その性質は別の位相にある。(「おはよう」と書かれたメモに対し「おはよう」と書かれたメモを渡すわけではないし、「おはよう」から始まるメールが、かならずしも「おはよう」からはじまるメールで返信されるわけではない。だが、音声レベルで観察すると、「おはよう」は「おはよう」で返される確率が非常に高い)・交換の量的潜在性(virtual-quantity)において、音声言語と文字言語は常に不均衡の状態にあると言ってよい。交換のエコノミー(経済効率)は同時にコミュニケーションの伝達効率を計る目盛りである。伝達の透明性とは非伝達的要素、すなわちノイズを除去することと比例的な関係があるが、言文一致の政策、その本意とは、伝達の効率を高めること、及び、効率を高めるために音声と文字のズレを矯正し、意味伝達の媒体を一元的に解釈すること、そのために言語の存在論的価値をよりいっそう平面化することに関わっていたと言ってよい。そして、正岡子規の発案ー提唱した「写生文」は、そのような「言語の平面化」に対する抵抗だと言ってよい。ここを取り違えてはならない。彼は交換の質的潜在性(virtual-quality)を奪回しようとしたのだ。(2010-7-30)






・埼玉県立美術館で『ゼロの零展』最終日。だいたい順番に見て回る。まず上開地真雪の『ビオラの影を通り抜け』(F3号)。ごく端的に言って、インテリア・ピクチュアといってもよいだろう手軽な趣味のよさがある。二つの鉢植えの小紫と白の花を描いているもので、やや俯瞰で眺められた二つの植木鉢の花の上部が意図的にフレームアウトさせられている。この絵は上部に光源が設定してあり、地面にうつる影が画の三分の一くらいの面積を占めている。タイトル通り、花の絵である以上に影の絵として見れる。しかし「通り抜け」という動態性をこの絵が持っているかと言えば、それはまた別の話になる。写真を撮るに際してのフレーミング、及び、フレーミングの失敗からなされるトリミング。この一連の作為が「絵を描く」という行為に影響を及ぼしていることがわかる。写真/映画撮影に(事物の全体を全体として見せる、つまり、事物の何処も欠いてはいけないという)「フルショット」という概念があるが、『ビオラの影を通り抜け』においては、作家の頭の中で最初からトリミングされた絵画にように見えた。(画題はぜんぜん違うけど)アレックス・カッツの筆触に似ていた。///次に白石梓の『clipped scene 10』(キャンバスに油彩)。7点もののうちの2点、ピンク色が用いられた2枚の絵の効果が見事だった。上段に4点下段に3点掲げられていて、中心軸からやや右部にほんのりとしたピンク色が網膜のある一点を占める。これも「clipped scene」というタイトルが示す通り、複数のシーンをモンタージュ可能なものとしてみなすというふうに捉えていいのかもしれない。切り取られた「動き」への、また「動き」を「編集可能なもの」としてみなすこと。この絵を見るものの前に提示されるのは、まさに編集台の上の映像のクリップである。あと、違う人の作品だけど、『ペルソナの貴公子と緋色の歯車』において(初期の、オランダのデザイン事務所あがり時代のスタイリッシュなものを含めた)ウィレム・デ・クーニングとフランシス・ベーコンのゴースト−残響が聴き取れた。///最後に古谷利裕の『plants』。壁のコーナーを使用した、ちょっとした祭壇のような展示方法は『plants』シリーズの最終完結編(編集決定版)とでも言うべきオーラを放っていた。植物の組成を単純化-一元化するのではなく、植物のディテイルへのつぶさな観察から導かれる数々のタッチ。土からの養分を根茎が吸い取るダイナミズムや、一方で、花びらや葉が光や水分をなじませながらゆっくりと色めいてゆく時間のオーダー(組成)が11点において展開されている。(しかし、この絵を見る網膜上には完全な「色めき」はついに訪れないだろう。東洋仏教の概念ではないが「色即是空」といわれるように、「色」とは常に「空」を伴う(空化する危険性を伴う)ものであり、それはなんら絵画の充実を生まない。色を無自覚に使うと文字とおり「空転する」だろうという、作家のしたたかなアッピールのように思える。)そこで気になるのは画家が選択する紫だ。ストイックなまでに色彩への誘惑を抑制するその態度は、ひとえに「紫の使用」を通じて説明できるかもしれない。画家の絵筆は思いがけず紫を選択し、すぐさまキャンバスに着地させる。だが、その瞬間から紫は「花=はなやか=高貴さ」という記号性の高さを剥奪されるべく<反−色彩>と化す。それは最初から紫を紫として展開するための選択ではなく、次に対照色である黄色をすぐさま隣着させ、いったん、すべての色彩をその色に飲み込んでしまう「黒」に還元した上で、その絵画はリセットされるのだ。紫と黄色を物理的に1対1の配分で混合させると黒になる(ということは網膜的にも黒になる潜在性を持っている)、この単純な科学を応用しながら「flowers」への道のりをどこまでも回避する「plants」の慎重にして荘厳な歩みがある。///さて、古谷さんとはちょっと前に会って対談し、僕が会場のホワイトボードに『plants』の細部を模写しながら話していたこともあって、やや距離の取り方が難しかったが、いったん離れて再観察してみて、また見えてきたこともあった。その細部模写した『plants』が会場では上下逆さまに掲げられていたように見えたが、それは見えただけであって本当はどうなのかは確証できていない。///なお、会場になった埼玉県立美術館は1993年の春に『シュポール/シュルファス』(1960年代末から1970年代初頭、南仏で起こった芸術運動、「支持体(サポート)/表面(サーフェイス)の意味)の大掛かりな展示が行われていたことをあとで知った。(2010-08-02)