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樹木、そうです。樹木を見ていました。今日は樹木を見ていました。それは、近所ではない林みたいなところで、どういうわけか迷い込んだのでした。誰だったか?・・・誰かに聞いたのは、「妖精が集まるのは陽だまりである」ということです。しかし妖精は見えませんでした。天気がよかったのです。・・・樹木は総計、何本あるのでしょうか?200本、いや1000本くらいあるのではないでしょうか?一定の距離を置いてそれらは立っています。けっして樹木Aと樹木Bは結婚しません。地下世界で接触しているだけです。・・・・表象論的なカテゴリーにおいては、それらは樹木です。しかし一方で、存在論的なカテゴリーにおいては、樹木にはさまざまな要素が代入されていることがわかります。というよりも、地下茎の絡み合いがもたらす収縮的強度です。樹木は・・・硬化と緊張のニュアンスに富んでいます。樹木はそれ自体において非−言語的に仲間を集めるのです。すべての代入項は地下茎の強度にかかわることです。代入されているのは、鳥をひきよせる葉という媒介項であり、枯葉という大地が大地へと目ざめさせる二次過程です。それらをひっくるめて樹木の存在論なのです。・・・・そもそもは樹木の根、脳神経細胞のようなそれのことです。樹木、まず、この垂直性はいったい何を表現しているのでしょうか?それは「この世界の電柱がすべてなくなっても(電線が地下化されても)、決して樹木はなくならない。」という表現です。第二に、地中からは太陽光は得られないということです。樹木にとっての垂直性の神話は、まず、天界に求めるべきでしょうか?大地に求めるべきでしょうか?「大地」(つまり、ハイデガー)の話は、ちがいます。ハイデガーが言及したのは大地ではなく、天でもない、山中の抜け道です。「そまうど」です。(ナチス・ドイツに迫害にあったユダヤ人は・・・どこそこの「そまうど」を抜けて・・・・)樹木が表象的カテゴリーとして問題にするのは天界からのエネルギーです。それは水分があることの主張としての葉の表面のことです。次に問題になるのは土の養分の流れです。垂直性とはそういうことです。大地が普遍なのか?それとも宇宙が普遍なのか?これでは中世の問いと同じになります。少なからず言えるのは、新たなエコロジーがもし発見されるとすれば、モグラにとっての真理が土にあり、鳥にとっての真理が空気にあり、魚にとっての真理が水にあるということから出発するほかありません。人間にとっての真理は言語であるばかりか、非−言語です。非−言語の複数性です。しかし非−言語は排除されます。「あいつはきちがいだ。精神病院に入れろ。」ということになるのです。じつのところ言葉を話しながら言葉を話さないということが一番難しいことなのです。そうであるばかりか、非−言語でコミュニケーションできないのは、人間の限界なのです。聖書や仏典が言語で書かれた以上・・・ロゴス中心性はあともどりできません。音声が分節されて、象形文字がブロック化されたものであるかぎり・・・・ただ、聖書や仏典がまず映画において提示されていたとすると、まったく別の世界になっていたかもしれません。これは夢想にすぎません。しかし興味ぶかい夢想なのです!