IMAGON STUDIES 10


■ 新コラージュ学に向けて



●「いやあ、暑いですね。」
▲「ほんと、今日はまだマシだけど、昨日、一昨日なんて、もうこの世の終わりかと思うくらい暑かった。」
●「この世の終わり・・・そうね、一昨日の8月6日は、1945年に広島で原子爆弾が落ちた、というかアメリカ軍が落とした日なんだけど、この酷暑にさらに過激な放射能を浴びさせられ、火炎的な環境が突如としてあらわれたわけでしょう。ひどい話だよね。」
▲「原爆はほんとは京都に落として、日本人のアイデンティティを象徴する歴史的有名神社仏閣を全面的に破壊させ、全国民にショックを与えるという話だったんだよね。」
●「そうそう、でもなぜか広島に変更になった。」
▲「アメリカという国は、よかれあしかれいろいろ言われているけど、基本的にはプラグマティズムの国で、<やってなんぼ>の世界観が支配的になっている。原爆作っても、すぐに実験して、イケルとなったら即落とす方向へともっていく。それで世界にアメリカの力を知らしめるというガキ大将的な方向でしょう。いまだに。」
●「そうね、たしかにヨーロッパ的な人文主義的知性だけではやっていけない側面があるし、知性への過度の信望は、ロゴス中心主義のあらわれだし・・・」
▲「だし。」
●「かつおだし。」
▲「しょーもなし。」
●「日本の国立大学における人文系学部はもうなくそうぜ、という国家の動きも結局ロゴス=言語の価値を貶めるという以上に、人文知の抹殺への動きへとコトがすすんでゆく。」
▲「歴史の抹殺というのは、同時に、歴史を語る知、歴史を語る言語の抹殺であって、それは逆説的に、歴史を抹殺する歴史のはじまりと言い換えてもいいかもしれない。いままでやってきた歴史記述はいったいなんだったんだっていう・・・」
●「憲法9条をめぐる、というか、日本の安全保障問題をめぐる法案へのアンチ体制にかんしても、Sealsやママの会がリードしていて、旧来的なイデオロギー闘争がない。というか希薄に見える。」
▲「結局、イデオロギーを云々している余裕がないんだろうか。」
●「余裕がないというよりも、イデオロギーを最初から嫌ってるんだと思うよ。まあ、それは制度側にもいえることで、経済原則を優先すると、イデオロギーが希薄になる。・・・・そんで、前から言ってるけど、ポジティブに言って、デモっていうのは表象に過ぎない。プラカードや、垂れ幕や、ゆるキャラでも作って、世界的な言語を使用して、バンバン写真撮らせて、世界的に知らしめるということが先決。」
▲「そっちの方を下部構造にもってくるのは正しい戦術だね。」
●「旧来的な共産主義の運動家や、民青(民主青年同盟)とかがすり寄ってきているみたいだけど、そこで、内輪もめ起こして互いに消耗することが一番良くないんだね。」
▲「そう、これも重要で、国家っつうのは、国家にとって都合の悪いものを必ず消耗させてゆく。」
●「どゆこと?」
▲「左翼右翼という二元の構図自体が、まず非常に国家的であって、」
●「左翼、右翼、ならぬ<なかよく>の立場で言えば、国家は右翼と左翼をカチコチに設定し、対立させて、どちらも消耗させて、ついに消滅させる。これが、国家資本のやり口っていうのは、今も変わらなくてね。」
▲「保守/革新という上から与えられた構図もそう。」
●「ま、個々人が革命的な存在であればいい。そっちの方がラジカル。」
▲「そうね、赤と青の対立に紫を見る、紫と黄色の対立に黒を見る、黒と白の対立に灰色を見る、という二元性の超克は重要。」
●「対立で思い出したんだけど、コラージュっていう手法は対立美学なの?」
▲「むりやり本題に入ろうとしたね。」
●「ねえねえ。」
▲「コラージュっていうのは、非常に20世紀的な美術上の技法なんだけど、僕の考えているのは、ポスト・コラージュってことだ。」
●「映画がモンタージュで美術がコラージュってことかいな?」
▲「前者が時間軸に関係しているのに対し、後者は空間軸に関係している。」
●「それであってるの?」
▲「あってる。とりあえず。コラージュで重要なのは、同一平面上での展開であって、そこには必ずひとつのフレームがあるってこと。」
●「ひとつの平面(プラン)とは何か?って、ドゥルーズ的な問題だよね。」
▲「そうかもしれないし、そうでないかもしれない。」
●「しばらく前に女子高生のあいだでコラージュが流行ったってきいたけど、あれは、個々人のメモリアルを同一平面上に展開することに主眼が置かれてたのよ。」
▲「写真=イマージュと言語=キャプションを同一平面に配置するってことでしょ?」
●「そうね。ひとむかし前のコラージュってなぜか英字新聞なんかを切ったものを配置するってのがあったんだけど、あれは言語=イマージュ。対して、現行のSNSのコラージュ単位では言語=キャプション=情報になっている。まあ卑俗な話だけど。」
▲「厳密な定義はともかく、完結した個人が完結した世界をひとつ代理表象するというタブローの制度性、つまり近代絵画の制度性に対し、」
●「コラージュってのは、複数の世界を自身にフィードバックさせてゆき、あるかもしれない複数性の自己、そして自己すらない複数的なXを決して閉じた回路に押し込めるのではなく、開かれた世界にフローしてやることだ。」 
▲「な〜る!」
●「こう、言葉で言うと簡単なんだけどね。」
▲「複数的な世界といった場合の<複数>が問題なのよね。」
●「そうね。この世界ははじめからミックスされたものなのか、つまりオーダーなき世界なのか?一方で、この世界は、まずもってオーダーとしてあり、そこからミックスすべきXをピックアップするのか?っていう問いね。」
▲「しかし、それは偽の問いであって、」
●「え?マジで?どうして?」
▲「あとは(以下のメモを使って)自分で考えてください。それじゃあ!」





コラージュとモンタージュとミクサージュはどうちがうの?
またブリコラージュとかアッサンブラージュも似たようなこと?

それらを支えている支持体がイマージュなの?
じゃあそのイマージュってなんなの?

イマージュないし、イメージは脳のゴチャゴチャ性を一気に解決する機能的役割がある。

そのばあい、指示対象を無化させることが指示対象となっている。

脳のゴチャゴチャ性はこの世界のゴチャゴチャ性と関係ある。
この自覚があるかないかでこの世界の見方が変わる。
これに気づいた時点である種勝利。

イマージュやイメージという言葉はアホみたいに便利すぎて、人類を堕落に追いこむ。またはアホがよく使いたがる。

堕落はこのゴチャゴチャ性を放置するので、いろいろ腐敗してゆく。


現代の文化は「腐っても鯛」的。とも言える。
とくに都市圏には(疑似)アーティスト志望者が多過ぎて、それらが群れ、馴れ合うことによってアートは腐ってゆく。腐っても鯛。腐ってもアート。
そういうしょーもない環境から一刻も早く離脱して、斜め目線で見下ろすことが重要。または見上げることも重要。上には上がいる。自分よりも天才が必ずいると想像するのは重要。


全体的にはもっとクリアに考えていくべき。歴史の垂直性を役立てろ。考えるには座標がいる


雑種性 雑貨性 定食性  → ハイブリッドは所与としてある(必然=自然)

この世界の基底にあるのは物質=マテリアリズムの立場
エピクロスマルクスはこれを徹底分析
アルチュセールは哲学に直結。
デュシャンは小便器に直結。
ストローブ=ユイレは映画に直結。
ゴダールは映像と音響をまず切り離してかんがえ、立体的に演出。


精神に先行する物質
(欲しがることの永遠)(形にすることの永遠)ここに一切の他者性がある
にもかかわらず、資本主義はこれを幻想化させるのが得意
コンプレックス強い、ダサイ、センスない自覚が強い人ほど、
幻想を持ちやすい構造を資本主義はあらかじめ作っている。
 
モデル(モデリング)政治 → モードの政治 → 
『今はコレよね!』いま流行っているものの一時的フィックス→ すぐに大量消費させる→が、すぐにダサイものとして、切り捨てる→次へ 

の強迫観念的スパイラルによって現代は成り立っている。 田舎者ほど、新しもの好き。これを開発→利用→搾取。

が、
ハイモード、ハイアートの手前までで止まらせておく。高級文化は、一部の人だけでいい。みんなが高級になってしまうと高級文化が高級文化でなくなってしまうから。わかるもんだけわかればいい。というイケズな構造もある。このイケズ構造に片足つっこんでおくことも重要。イケズというのは批評精神。


劣等感の発明と劣等感を克服させる幻想の発明は同時的、
これは
根深いところでナチスの優生思想(つまりホロコースト)とかに直結。重要。
劣等感にはあまり根拠のないものが多い。

→●●になりたい、こうありたい、というイデアルな政治を発動。
現在はおおむね(他者/自己)を幻想化させることに価値がある。文学や映画や音楽、諸文化では支えきれなくなっているのが現代。


このように、晩期資本主義の段階で、物質の価値は貶められている。
すべての物質が投機の対象となることによって、情報ないし、情報操作の対象となる。サザビーからヤフーまでのオークション。そしてすべての物質は考古学、考現学の対象。


→物質はキラめくことによってその出自を隠す。出自と起源はちがう。
きらめくのは各自の自由。原価計算できてればいい。あと各自の生産過程を各自がわかっていればいい。これがしっかりしてないと壊れやすい。

だが、物質は物質である。この<である。>が重要。<である。>の永遠。なので、
「物質の出自」を救う という動き
「物質の出自」は物質が物質であることの全過程
水がお湯になる。水が氷になる。これは客体的事実。ここに物質の強さがある。
<●●になる>の過程で<●●である>が形成される。じつは。これ重要。

新コラージュ学は以上の考察から出発。<物質の出自>がキーワード。
ガタリの<無意識=工場>も重要。
皮膚の下では工場が過熱しているアルトー


物質との出会い方はそれぞれ
にもかかわらず、まとめるもんはまとめとくのが、情報的価値

ブルームーン共時性
天気の共時性 プチ崇高の共有

天候兵器 地震兵器
陰謀論 

情報先行的感性が物質に組込まれているという妄想
ここがポイント。想像力や知性、理性、センスのだしどころ。
「これ考えるのがおもしれ」は、ある。

折り畳まれた現実 圧縮された諸現実 形そのものが隠蔽する 製品の特質
良いコラージュと悪いコラージュはある。
比率 まとまり具合 コラージュの完成度ってあるの?
マージナルアートゆえの気軽さがいい。

イメージからの脱出
が、中平卓馬的即物性だけでは足りない。
中平的即物性を別様に展開することによって、見えてくるものへの賭け?

映画は写真の衝撃性を弱めてしまう。
生そのものの連続性 映画
生そのものの連続性の切断 写真 
すべてのリアルは断定的である。

断定しないと進まないという現象はモダニスティック。

文学 写真 音楽 モデルに基づいた映画 共犯関係
感情移入させようとするイメージとそうでないイメージがある。
センチメントといえばアラーキー
旅行会社のPR写真の拡大再生産してもしゃーない。
眼球の退廃
抽象表現主義 グリーンバーグ フリード
イリュージョンを排す 画面から完全に締め出す

ギー・ドゥボール サドのための絶叫 は コラージュ的
ゴダール中国女 東風 まだイリュージョンが残っている
ほんと?

下手であることの倫理 エチカ

言語実験 トリスタン・ツァラからバロウズ

丸の内サディスティックとか
涙サプライズとかは、コラージュ言語ではない
これの起源は「すみれセプテンバーラブ」?。
「川辺リリバーサイド」はコラージュでもモンタージュでもない。

助詞抜き 省略の形式 フォーマット言語

(2015 8 8)