新・映画ノート について






まなざしは、網膜的な行為の結果生まれるものですが、待っているまなざしのゴミとしての視線の蓄積から再出発することもできます。



写真に飛びつくということがあり、それが活動的、あなたが写真家という活動的な狩猟家であるかぎり、写真は活動写真、つまり映画のそばにいることができます。カルチェ・ブレッソンによれば写真において、写真をいままさに撮ろうとしている主体において逃げさるのはイマージュであり、逃げ去ったイマージュは、もう2度と元には戻りません。完全なる欠落、欠如として、また再構築されるべき像の足場(ここでわたしは建築の比喩を使う)としてわれわれの目の前にたちはだかるのです。追い求められたイマージュはそうでない置き去りにされた前イマージュそのものの足場を固めてゆきます。



東宝と松竹の2つの磁場からはやや離れいている時代の産物、緋牡丹博徒 鉄火場列伝 を一気にではなく何回かに分けて、次に 河内弁の全国波及に貢献したものの、地元の人々の抗議にあったという 河内のオッサンの唄、これも何回かにわけて、全共闘の運動が挫折して無風状態になった時点であらたに若者を魅了した片岡義男の小説原作を持つ角川映画の スローなブギにしてくれ、これも数回にわけて、江戸川乱歩の直系にあたると思われる横溝正史の原作小説を持つ 犬神家の一族、を何回かにわけて、そして個人的には高校の映画鑑賞会で観て以来、それがまずまず興味深い作品であったにもかかわらず、すっかり忘れていた、松本清張の小説原作を持つ 砂の器



12月は、これらの映画を自室において観たわけですが、いくつか重要なポイントだけに絞り言葉を組み立てて