美術ノート 17





■ 岡崎乾二郎の新作 





美術ノート14、15のつづきとして。




企画者でもあり、出品者でもある岡崎乾二郎の新作を二点見て、前回、東京都現代美術館で見たときほどのインパクトはなかったにせよ、「やはり、ちょっと頭がおかしいんじゃないか?」(もちろん、いい意味で)とか「こりゃ、やりすぎだよなー。」とか、「どうして?」とか思いつつ、30分ほど作品の前に釘付けになった。



前回の感想文はこれ(http://d.hatena.ne.jp/imagon/20100405)で、「床であるにもかかわらず、表面が釉薬ででこぼこになっているため、掃除機をあてられない。」とやや批判めいたこと(実用的側面に照らして)を指摘しているが、今回はなんと、でこぼこが一掃され、完璧にフラットになっていたのだった。(絵付けが印刷してあるようにも見えたが、手で触っていないし、それはわからない。)


今回のものは、単純きわまる「床」ではない。「床」という語はタイトルにはなく、それは「床」に見えたとしても、「床」以上の何かがあるということを意味している。では何か?早急に結論づけるならそれは入り口である。入り口としての床であり、同時に地下からの出口としての床である。それは穴がうがたれて通気口をもたされ、人間が出たり入ったりできる床だ、という意味においてである。


今回の展示空間全体においては、少しは作品の内容以上にそれらの「空間的配置」に注目しておいたほうがいいのかもしれない。わたしが思うには、まず岡崎作品の「床」があり、その一部をめくりとって、地下へゆく階段を降り、1階にある(美術ノート14、15で触れた)作品郡を鑑賞するという順序がまっとうなのである。(岡崎作品は二階へ上がったところの踊場にある)。だが、これをしないのは、たんてきに「説明的になる」もしくは二階から鑑賞してもらって、次に一階分を鑑賞してもらう、という順序が鑑賞者にとってはいささか不自然なものとなるためである。


ところで床に穴があいてある、これはどういうことか?たとえば、(現在の家建築および台所の造成がいかなるものなのかはしらないが)台所の床の一部をぺくっとめくると、その穴が、食料品の貯蔵庫として使われているという、そういう仕掛けが(かつての台所造成手法に)あったように思える。(時代的なものかもしれないが、今もあるように思える)。繰り返すが、岡崎作品はこの床の一部をめくり、「<外部−連絡口>が必ずある」というこの一点を想像させようとする仕掛なのだ。


ではその先には何があるか?・・・もうお気づきかもしれないが、そこに「墓」があるのだ。今回の展示で重要なのは、個々の作品というよりも、この見えざる連絡口を見るということ、少なくとも想像可能なものとして、把持させることにあるといってよい。



「ET IN ARCADIA EGO」、訳すれば「われもまたアルカディアに」となる。もちろん、この展示会タイトルは、画家ニコラ・プッサン(1594−1665)の『フォーキオーンの葬送』にヒントを得ている、といっても的外れではないだろう。建築家フィリップ・ジョンソンの生前、その自邸でもある<ガラスの家>(1949)やジョンソンの美術品コレクションなどをリポートした浅田彰のエッセイ『われもまたアルカディアに、近代建築の天人五衰』から、「アルカディア」に関する部分を引いておこう。


・・・・(略)いや、いまもできたてのように見える<ガラスの家>にすら、そのような崩壊の相を見ることができるのではないか。というのは<ガラスの家>ができたときから、そこに置かれていたプッサンの絵のことだ。<フォーキオーンの葬送>というこの絵はパッラーディオ風の理想的な建築の点在する美しいアルカディアの風景のなかで、そこに埋葬されることを許されなかった古代アテネの武人の死骸が白布に覆われて担架で運び出されてゆく様を描いている。死が「われもまたアルカディアに」と囁くといういかにもプッサンらしいアレゴリーだ。しかもジョンソンが父から相続したというこの絵は・・・(略)

(『10years after Any ビルディングの終わり、アーキテクチュアの始まり』 磯崎新浅田彰 p.168〜169)


死が「われもまたアルカディアに」と囁くのであって、死を前にした生者が死を語るのではない、ということ。死それ自体がわれわれ生けるものの「主」なのであって、「死という意味/意味としての死」を仮構的に充填させられた生者が死を語ることはすでにして一種の近代的倒錯だということ、この展覧会に「物質としての作品」が配置されていること、作品が語ろうが語るまいが、「そこに作品がある」というこの「自明性」をいまいちど徹底的に確認しておこう。「埋葬されることを許されなかった・・・」という事実、これを墓を持つことや、墓に入ることを許されなかった人々・・と置き換えてみるといいだろう。いかにも、古代アテネの時代ではあるが。

おおよそ、都市という都市は、無数の死者のうえにその繁栄の連続がある。近代的万人が万人をして葬儀という儀式を行う。それを通して、死を死として「形式的に認める」というこの人間だけがもつ特性の維持は、むろん「(共同体的な)生の連続」という目的的意識の維持と相応関係にあるだろう。「たんなる死」を「いかにも動物的である」と規定し、一方の「たんなる死、以上の意味」を人間世界はいかにも「建築的に」維持してきたのだ。「たんなる死」は人間世界にとって「死」ではなく、「葬儀」を通して、共同体によって、「再び殺す」ということが必要なのである。一度死んだ者をさらに徹底的に、かつ共同体の身体性を総動員して殺すこと、これがスタイルとしての、形式としての「葬儀」の隠された意味である。(・・・ということは、かつて柄谷行人が、その文学論、武田泰淳論だったかもしれない・・・において触れていた。)

なんのための芸術か?この基本的な問いにいまいちどたちかえってみよう、それは「個々の生活に彩りを与える」という凡俗なものにとどまるものではさらさらない。趣味の拡張、美的な自意識?そういうものではない・・・芸術のための芸術?・・・そういうものでもない。・・・岡崎乾二郎が、この展覧会で試みたことは、ひとえに現代世界における「物質=歴史」の再ルネッサンス化である。そうとしか思えない。



ところで「物質=歴史」の再ルネッサンス化とは何か?・・・目の前にある物質に歴史を感じとってみること、これは、誰でもが行っている、または行うことができる訓練の所産としてわれわれを待ち受けているが、しかし「対象物」を、ある種の「新しさの相」において捕らえなおすことがなかなか難しいのである(←これは私見)。「物」、を同時に「物」を越えた「事」、を内在するものとして、捕らえなおすことは、まさしく「物質のルネッサンス(復興)」という新しい相を帯びることになるだろう。リサイクルとかリヴァイバルとかそういう話ではない。たったいま、目の前にあるモノを手に取り、じろじろと眺めながら、そこに膨大な歴史の蓄積を感じ取れるかどうかがさしあたっての問題なのである。(一枚のティッシュペーパー、一枚のコンビニの袋など、「強力にどうでもいいもの」の方がより高度な訓練を要する)



ここで作家の比較的最近の言説を覗いてみよう。


歴史の完結(そこで歴史が自由に参照、使用できるソースとなる)がポストモダンだとすれば、今後進むのは、暴力をともなった歴史の抹消作業、ポストヒストリーだろう。想起することも参照することも不可能になる過去。漱石にとって明治が終わった後の時代はすでにそう感じられた。

(『磯崎新建築論集』第1巻 付録p6「乃木坂とポストヒストリー」)

磯崎新のアトリエは乃木坂にある。この関連から「乃木坂とポストヒストリー」は書かれている。乃木の死後(乃木の死後というのは、ようするに明治天皇の死後のことだ)、大衆的に流通し、ポピュラリティーを得ることとなった(なぜなら乃木が切腹した1913年9月13日の朝に撮影されたものだから)「一枚の肖像写真」のレポート−分析。この報告から、さらに乃木の殉死を主題にした夏目漱石の『こころ』を参照しつつ論が展開されている。



最後に芥川龍之介の『将軍』が取り上げられるが、この小説の最終部で、乃木の肖像写真とレンブラントの複製画が並列して飾ってあることが指摘され、元将校がこの絵をはずすところで小説が終わるという指摘につづく。



ここで岡崎乾二郎が問題にしているのは(問題にしつつ芥川を評価しているのは)、「複製品=肖像写真=乃木」と「複製品=絵画=レンブラント」を並列するという、ここに見られる「欺瞞」である。いわば「イメージの複製としての歴史」という次元にまで高められたそれらの二つの枠=物質(そしてそれを可能にする一枚の壁!)がもたらす<歴史の「非−歴史化」>、つまり<歴史の抹消>であろう。もちろんまず第一にわれわれに課されているのは「歴史の抹消の歴史」をつぶさに観察し、クールに記述してゆくことにあるだろう。





ここで、「ET IN ARCADIA EGO〜墓は語るか?」に戻ってくる。そして岡崎乾二郎の新作に。・・・さて、現代世界とは、宇宙に膨大な数の衛星が飛び交い、移動中の各自が衛星を経由して、手元にある端末を操作し、「この料理はうまかった」と、書き込み、インスタント写真をながめ、「日々を享楽するように半ば仕向けられている」世界である。これ自体、べつだん問題はないだろう。だが、こういうことを無自覚につづけていると、本来的には漸近的に下降する、地下に走査線をはりめぐらせるような「コンシャスな思考」は、いやがうえにも水平、あるいは、斜め上、あるいは上を向いてしまう(ここではアンコンシャスなイメージが支配的になる)。いや、みんな上を向きたいのだろう。(・・・優秀な兵士はまず足元を狙い、優秀な諜報員もまた足元を見る)・・・むろん、もともと古代ピラミッドの壁画からして、「絵画を飾る」という行為も、(あるかないかの)世界を水平化し、その上で世界を一瞬固定する(かろうじてあらしめようとする)試みだったのかもしれない。これは同時に壁の<シニフィカシオン−意味作用>の問題でもあり、アーキテクチュラルな問題でもある。だが、近年の岡崎乾二郎は、「壁にかけるもの/壁にかかるもの」を前提した作品をポジティヴに発表しなくなった。(しているかもしれないが、おおむね、絵画を垂直転換する試みのほうが強くなってきていると思われる)。この試みが新鮮な展開なのかはさしあたって問題ではない。より重要なのは先述した「物質=歴史」の再ルネッサンス化の方であり、「マテリー/ヒストリー」の現実的介入そのものなのである。







最後に、前半部に記した「地下への出入り口」としての「床」、そして作品の全体的位相(配置)に関して、コーリン・ロウの「虚の透明性、実の透明性」に関連させて記述展開すべきなのだが、時間がなくなった。だらだら書くのはよくない。このあたりで「美術ノート17」をいったん完結する。(〜2013・7・29)




(次回は<音楽ノート8>「無調音楽およびアントン・ヴェーベルン」・・アップロードは8月3日予定)