読書ノート 7

imagon2009-11-26











■  須原一秀 『自死という生き方』(『新葉隠』)




11月18日付けの「制作ノート3」で須原一秀の著書に近々目を通すだろうと予告し、さっそく目を通してみた。この書物を読むに際して、その内容においてはだいたいのところ予想していたのだが、不意打ちをくらった。(僕の狭い了見で言うが)世界中どこを探してもこんな過激な書物はないだろうとも言えるし、一方で、(「一般」向けに)平明に<自死>のコンセプトを説いた入門書だとも言える。しかし、読後の<割り切れなさ>がずるずると続く。書こうと思う。



須原一秀は哲学者だったのだろうか、(『ニセ学生マニュアル』で一時期、その名を馳せた)浅羽通明による序文によると、「須原一秀は<自らの哲学的事業として>自死を遂行した」、このことが強調されている。その行為がどこか<否定性>の徴を帯びながらも、あっけらかんとした印象を結果的に与えるのはひとえに、「この書物が」現在、ふつうに書店に売られ、ふつうに読まれうるものとして売られている、ということに尽きる。(この「ふつう」もなかなか的確に説明しがたいのだが)。



この書の白眉は、自死決行日に至る数ヶ月前、何人かの友人にその意志を語りながら覚悟をかためてゆき、その模様が記されている日記があっさりと公開されていることにあるだろう。そして自死の正当的な意味づけを文化的/社会学的に掘り下げるためにさまざまな参照軸が用いられた論考が展開されている。このことにまずは驚かされる。以下、少し長くなるが、ざっくばらんに感想を述べておきたい。





あたりまえだが、自殺や自死や自害の問題は、その呼び方がちがえど、結局「その人が能動的に死を選ぶ」という事態の「コト」(事件性)であって、自然に死んでゆくという「受動性」に身を任せるという「モノの成り行き」を指すのでは決してない。この書に通底しているのは「自然死」に対する徹底した懐疑であり、参照される人物は、実際に<自死を決行した>歴史的人物、ソクラテス伊丹十三、三島由起夫、そして参照されるテキストは、主に三島も好んだという武士道の名著『葉隠』(山本常朝)である。これは結構重要なことだと思われるので、(ついでではあるが)『葉隠』についての巻末の注から書き抜いておこう。



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もっとも『葉隠』は、江戸時代にはそれほど流布していなかったようである。そして、著者の山本常朝が所属していた佐賀藩においても、ある時期まで禁書になっていたようである。それでも、武士から武士へ筆写され、現在まで伝わってきたのである。それはこの本自身に、力と魅力が備わっていたからであろう。( p.279)

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ところで、「世界はモノの集まりではなく、コトの集まりである」と簡潔に断言したのは20世紀初頭の哲学者ヴィトゲンシュタインだった。「人が死ぬ」という生物学的な単純さを前にして、その単純さを受け入れるのが「自然死」だとすれば、(あるいは、「死に至るプロセスを<身体=モノ>の問題系に回収してしまうこと」だとすれば)、一方の「自殺/自害/自死」の実践は「自らの死を人為的に構築すること、<身体=コト>の問題系」に他ならない。そういう意味で、著者はウィトゲンシュタインの言う「コトの総体を生きた」人物なのだろう。なぜなら著者、須原氏は自死を選んだのだから。「自死」に関しての原稿、『新葉隠』をわれわれの前に残して。



こんなことを公言する機会もないのでついでに言っておくが、僕は「死についてはそんなに大げさに考える必要はない」という立場をとっている。さしあたって「死人は放っておけばいい/放っておけない人だけ語ればいい」のだし、「そもそも死人は忘却される」運命にある。とは言うものの、「二人称の死」(知人の死)は最終的に「放り切ること」がなかなかできないものだ。「世間の顔が転移した主体」が身体に、脳にするどく当事者の「死」の記憶を刻み込むからである。もちろん、誤解してほしくないが「世間」を作っているのは、半分は「私」である。そして、必ず「あいつ死んだよなー。」とか「知り合いで若くして死んだヤツがいてなー」と言える相手がいる、ないし、自分で作っているものであり、またいてくれなければ、それはそれで辛いことに決まっている。また、「悪事千里を走る」という諺の意味は、悪事(この場合は「悪事=二人称の死」)の記憶を世間の側からどこからともなく再構成して、水に流してやる「技術」(とても日本的な技術)のことだろう。一方で、「人の噂も75日」とも言うが、「いいこともわるいことも」2ヶ月半たてば、みんな忘れているものだ。




須原氏は65歳で自死を決行した。ここで65歳という年齢について少し触れておきたい。平日の昼間の電車に乗っていると「なんと老人が多くなってきたことか」とたまに脳裡をよぎることがある。その光景が「よいかわるいか」ではなく僕はなんとなく「それにしても老人が多過ぎて不気味だ」とか「この人たちは一体何の用事があって、どこへ行くのか」とか思うことがある。また、以前、身体上のトラブルがあって整形外科へ行ったことがあるが、そこも老人ばかりでやはり「不気味だな」と思った。ひどい言い方だが、これは「人生への未練」を捨てきれず、「生にしがみつく」老男老女たちの地獄絵図だとも思った。しかし「少しでも体をよくして、少しでもいい思いをし、少しでも長生きしたい」という思い(理念)が彼ら/彼女らのあいだで至極当然のように受入れられているのだし、それを否定しようものなら「老人排斥者」として社会から糾弾されるに違いない。65歳とは、定年を迎え、そのような自覚、「私は人生への未練を捨てきれずにいる、つまり、それがどんなにささやかなものであれ、第二の人生を開始したいのだ。少ない年金をあてにしてでも。」という自覚がだいたい始まる頃ではないだろうか。それは一見、どちらかといえばポジティヴなことだが、「自然死」に至る過程、つまり老化そのもののプロセスは第二の人生を十全に受入れてくれるほど、寛容ではない。



現役で働くということに一応のピリオドが打たれ、孫もある程度成長した。あとは特にやることもないが、世間が何もやらないのはボケを進めるだけだと言っているし、なんとなく盆栽いじりをしたり、囲碁教室に通ったりしている、というような「なんとなく」、「あいまい」が、まず支配的になってくる。そして、老醜は避けられない。かつての美男美女も顔体に皺を刻み、動きも鈍くなり、お洒落をしても誰も相手にしてくれず、だから着るものも適当になってくる。老化がエスカレートしてくると、ものも噛めなくなり、入れ歯にたよることになって、さらに歩けなくなり、車いすに頼ることになる。気がつくと「老人ホームに入れたほうがいいのかどうか」、家族が目の届かないところで相談しあっている。これはもう地獄以外の何ものでもない。



須原氏の自然死への懐疑は単純なものだ。まず、須原氏は人生におけるさまざまな「極み」を味わってきたという。端的に言えば「オレはもう充分幸福なのだし、もう死んでもいいだろう」という極みを経験として持っている、なお、極みがある程度蓄積されている、という状態が確実にある。この言明は須原氏の主観に過ぎないが、確かにそういう前提(思い込み)がなければ自死を決行できるはずがないだろう。この「極み」が「自然死への懐疑」を促しているのだし、両者はワンセットになっている。



ところで、「自死」と「自然死」の比較はサクラとアジサイに喩えることができるかもしれない。ひらたく言えば、満開時にあっさりと散り切るサクラのような存在こそ「自死の理念」にふさわしい。誰彼に惜しまれつつも、この世の未練をサッと断ち、散開し、消え去る。その美学上の「認識論的切断」(アルチュセール)は、至上の美を讃えるものだ、と。一方で、アジサイという花がある。それは梅雨時になればしっとりとしたかれんな花びらを身にまとっている。それは決して目立とうとはしない。ひかえめな淡い色をのせ、繊細きわまりないフランス刺繍のレース編みをしつらえたドレスをそつなく着こなしているような装いでもって、われわれの目を楽しませてくれる。「ああ、なんてお洒落な花なんだ」と、僕は毎年ためいきをもらす。しかし、アジサイというやつはシーズンが終わったあとも、「いつまでたってもしつこく老醜をさらしている」のだ。・・・晩夏から初秋にかけてのこと、夕暮れ時に気分よく散歩していると、僕は毎年フと気付くのである。すす茶けた古タワシが多量にぶらさがっているような何ものかが視界に飛び込んでくる。「あれは何なんだ?」と近寄ってみる。それは、もうババアになったアジサイなのである。それでも形状的にアジサイであることだけは、かろうじて主張できており、その古タワシはつまり、こう言っているのである。「私も昔は美人だったんだけどねェ・・・」と。「ばあさん、こんな醜い姿さらしているんだったら、さっさと散ってしまいなよ。昔の美人が台無しだよ。」「いや、それがなかなかねェ・・・」・・・これはこれで凄い世界だとは思うけど、老醜までも外界に堂々とさらすアジサイのようであっては断じてならない、というのが自死決行者の立場であり、その理念だろう。



イタリア人が言う「アモーレ、カンターレ、マンジャーレ」(愛して、歌って、食べろ)。例えばそういった享楽の繰り返しによって獲得される「人生の極み」の蓄積が「自死の前提」となると同時に「自然死への懐疑」がすすみ、さらには「自死の魅惑」を駆り立てて止まないのだろう。そして老醜化した老人が人口比を圧倒的に占めはじめるのを知り、さらには「そんな仲間に入るのは御免被りたい」と思いはじめ、そして「いつまでも若々しく」という美辞麗句も「薄ら寒い幻想だ」と気付くにはそうそう時間はかからないのだろう。老いは老いの自覚を促して止まない。若さが若さの自覚を促さないのと同じように。



繰り返しになるが、この時点で「自死とは一体何なのか?」を過激に熟考したのがこの書物だと言ってよい。先のメタファーを繰り返すと、自死とは「サクラ」であって断じて「アジサイ」であってはならない、ということだ。



須原氏はソクラテス伊丹十三三島由紀夫の<自死>をいずれも「楽観的な死」であり、そもそも「自死」を覚悟していたのは決行日よりもはるか以前であったと述べている。そして、(ここが肝心要なのだが)、<自死決行のチャンスをいずれの人物も<待った>ということであり、自死の決意から決行日までの「遅延」こそが、彼らの第二の真の人生を導き入れるのだという「切断面」が確実にあると述べていることである。



さて、ソクラテス伊丹十三は須原氏の言う<人生の極み>をだいたいに謳歌した人物で、三島由紀夫の場合はそれに輪をかけて<老醜への嫌悪感>が前二者以上にあった。ところで、<自死のチャンス>とはどのようなものだったか。



それぞれに述べておくと、まずソクラテスの場合は「死刑宣告」あるいは「裁判」である。(死刑に合う前に毒入り人参をあおって死んだ)。伊丹十三の場合は女性スキャンダルである。三島由起夫の場合は自衛隊の出動に対しての(あらかじめ敗北を前提としている)市ヶ谷の自衛隊駐屯場での演説だが、その背景に三島と寄り添った「森田」という頼もしい人物の出現が三島の自決を促せたということになっている。



須原氏の場合、何が<自死到来のチャンス>だったのかはこの書において直接的には触れられていないように思うし、幾分強調されてもいる自身の「哲学的事業」を完遂するための<自死>というニュアンスの方が強い。それはそれで疑いようのないことだし、その行為を誉めるも貶すも、それが事実(コト)であったには変わりない。



(僕はなぜか(参考のために)自分の親にでもこの書の一読をすすめたい、そんな気さえするが)、ただ、<自死の文化>は今の日本社会では否定されているのだろうし、<自死肯定派>が、ある程度の受容過程を作り上げてゆかなければ<須原氏の自死>は確実に無に帰すばかりだろうと思われる。(そして、「尊厳死」や「安楽死」などの問題も含めて、自死尊重の価値観は、変成してゆくだろうと思われる)。



もちろん批判したい箇所もある。最終的に<自死>を「復古主義的日本的共同体」への理念と結びつけるために『葉隠』を参照にし、持ち上げている箇所であるが、今更「武士の時代へ戻れ」と言われても戻れるわけがないだろう。テレビドラマや映画によって「武士」はすでに消費の対象となりさがっているのだし、あんなもので「日本的アイデンティティ」とやらを確認できる者は、僕にとってはおめでたい馬鹿でしかない。論のもっていきかたが上手いので一瞬騙されそうになるが、注意して読むと、どうやら文章が「代表的」になってしまっている。つまり、「私は日本人を代表して言わせてもらうが・・・諸君、『葉隠』を読みなさい。」というふうに。





さて、長くなってしまった。・・・最後に、少々の回想を。・・・実際に僕は須原一秀教授の授業を受けていた。一般教養過程の論理学の授業だったが、映像教材なども多用されるため、視聴覚教室で行われることが多かった。(『新葉隠』を読んだ上で言うと、須原氏は、このころから「人生の極み」を極めていたのではないかと思う)。授業がはじまるや、プリンス&ザ・レボリューションのアルバム『アラウンド・ザ・ワールド・イン・ア・デイ』(『一日で世界中をかけめぐれ』)をバカでかい音で鳴らし、歌詞カードのプリントが配布され、「この歌のどこが斜にかまえているか」の分析が生徒の意見とともに展開される。・・・僕は最初からこの人は「本当に変わった人だな。」という印象を持っていた。・・・また、たしか『哲学探究』だったと思うが、ヴィトゲンシュタインの書物でも使われている「ウサギ/アヒルの図」(ウサギにもアヒルにも見える絵)がテレビモニターに映され、アリストレスの質量/形相の二元論を用い、エイドス処理についての説明がそれに続く。思えば、ヴィトゲンシュタインラッセル&ホワイトヘッドリチャード・ローティカール・ポパーという名前を覚えたのもこのころだった。(ところで須原氏の専門は野家啓一に近い「科学哲学/分析哲学」であるが、教科書に使っていたのは須原氏が翻訳した『虚偽論入門』、あと著書の『超越錯覚〜人はなぜ斜にかまえるか』であった)。



一般教養課程も終了したころだったろうか、僕が創始/主宰した映像研究会のポスター(僕がへんなイラストを描いた)を見て、「どうやら須原教授が映像研の面子と飲みたがっている」と人づてに聴いた。ほどなく、われわれ映像研部員は新築の須原邸に招かれた。JRの膳所か唐橋という駅からバスに乗って行った。京都の自然とはまた趣きを異にした、滋賀の自然を満喫できるところで、すばらしい環境だった。奥様の手料理が振る舞われ、お酒もいただきながら歓談した。何を話したかもうすっかり忘れたが、夜も更けてさあ、おいとましようという時になって、須原氏が「外にいいところがある、そこで飲みなおそう」と言い出して、ほとんど暗闇のなか数分歩いた。小さな川のほとり、芝生の上から桟橋がかかっていて、そのふもとでウィスキーを呑みながら、須原氏はジャズの話を一方的にしていた。「いやあ、しかしマイルスはいいねえ!」と彼は虚空にむかって叫んだ。その声が一番強い記憶として残っている。一回きりの宴席だったが、この「マイルスはいいねえ!」を思い出さなかったら、僕はこの書の扉を開けなかっただろう。そんな気がする。




最後に、この書を装丁しているのはミルキィ・イソベ氏である。その昔、ペヨトル工房から出ていた小説の装丁、特にウィリアム・バロウズの小説はすべて彼の手によるものだったと記憶する。(2009-11-23)