制作ノート 4

imagon2009-12-02







■制作ノート 4



制作ノート2における覚書より、さらに考察すべき事柄を整理しておこう。



●ステンドグラスというメディウムは実際の光を使用し、神(超越者)の存在を背後から照らしだしている。これが西洋の神学における「光のオントロジー存在論)」にかかわる表現(光の建築)だとすると、ステンドグラスがまず比較すべき東洋的対象は仏像のそれである。室内に閉じ込められた仏像が背にしている光、それは光の模造物であって光そのものではない。光の模造物によって光をリプレゼンテーション(再現−表象)したものが、仏の超越性を表現しているのならば、仏の超越性はむしろ疑似超越性と呼ばれてしかるべきものである。コピーとしての光、サンプルとしての光を背にした仏の像、それが日本的仏像である。当時(14歳時)、BがAをぎこちなくデートに誘った背景にあるのは、「ハンカチの色彩を透過する光」にステンドグラスの隠喩を見てとった、この無意識的な興奮からである。それは当時、「カラフルでキレイなもの」に過ぎなかったが、深読みすると「色即是空」という観念上の理想が崩れ、「色彩の誘惑」にBが拝跪した、ということでもある。この、外界が与える「色彩の誘惑」への拝跪は後年つづくことになるが、同時にBが主体的に「色目を使う」「色気を重視する」傾向が顕著になるにつれて、Bがもたらすであろう「悲劇的顛末」を招くことになる。(色気を使いすぎたために失敗する、というのはよくある話だ。)



●Cの最終的な自害について。須原一秀の「自死という生き方」を読んだが、今ひとつ参考にならなかった。わかったことは「自死の能動性」が明確にされすぎていて、あまり「死」を感じさせないという印象をもたらす、そんな死もこの世にはあるのだな、ということだった。ただ、須原氏が最終的に表現したものによって隠されていることがあるとすれば、それはなんなのだろうか、ということだ。この「精神の監獄」(人は何かを表現することによって必ず何かを隠してしまうことになり、その隠されたもの・・・受動的な秘密が内部に滞留してゆくことによって、かえって主体が苦しめられてゆくというコントロール不能な過程)は、今なおもってドラマトゥルギーの基礎となりうる。また、「自殺というのは他人を殺す論理と自分を殺す論理が一致してしてしまうことによって起こる。」という文章をどこかで読んだことがあるが、この「論理の一致」がなぜ起こりうるのか。ここで、いやでもアルチュール・ランボーの『地獄の季節』の一節「われは他者なり」を想起してしまうが、もう少しかみくだいて考えてみたいところだ。



●黒人の扱い方がまだ咀嚼できていない。「黒人一般」という捉え方はどうしても「共同体」に傾いてしまうし、映画の中で描いても「共同体」のメタファーの表現にしかならないだろう。かといって固有名を与え、単独性を与えるとなると、どうも大袈裟になってしまう。しかし、ここはあえて固有名を与えながら(徹底的に虚構化しながら)、関係の輪郭にあてはめていった方がスムースにいくのではないかと思う。



蛇足だが、数年前、日本における黒人事件史を調べていたことがある。黒人の事件はあまり言説化されていないようである(もしくは少ない)。中でも大きなものは、1958年、福岡の小倉(コクラ)市というところでおこった黒人兵脱走事件だった。小倉の米軍基地に居留していた黒人兵が、敷地の外で行われていた祇園祭の最中に鳴っていた祇園囃子に反応して、一斉に脱走したという事件である。僕の勝手な推理だが、祇園囃子の「低音」が黒人兵の「何か」を刺激して、脱走に及んだのではないだろうか。(尚、松本清張がこの事件を小説『黒い画集』の素材に使っているようだ。)