読書ノート 9


■  陣野俊史 『フランス暴動 移民法とラップ・フランセ』  その1





先日、イギリスで暴動があった、と人づてに聞き、ふだんテレビも見ず、新聞もたまにしか読まない私はネット上で流れている暴動の映像をいくつか見た。(2011年8月6日、北ロンドンで警官が黒人を射殺したことに抗議するデモが暴徒化し、イギリス全土に飛び火したようだが、主にマンチェスターでの暴動の映像が多く流されていた)。それらを見て少し驚いたが、すぐに落胆した。落胆、とは言い過ぎかもしれないが、より正確に言うと次にようになる。落胆が示唆するものは、数年前に起きたフランス暴動のときもそうだったが、「同じ何かがずっと反復している」という繰り返しの意識であり、それが永遠に解決できない、つまり、何をどうしても変えることのできない不毛なる問題であるがゆえに、いつまでたっても同一平面上で繰り返される、悪無限的悪循環といってもいいような、ある意味「どうしようもない」という感覚なのだ。それは、私自身が全能の神でもなく、融通無碍なるスーパーコンピュータでもなく、一個のありふれた「個人」であるからにちがいない。決定的に言えるのは今回のイギリス暴動に関して誰かと問題を共有し、一緒になって解決したいとか、議論を積み重ねてそれを公にして世論を揺るがせたいというような意欲はまったくない、ということだ。(大地震の場合でも同じであるが、しかし、私はたんなる傍観者ではない)。にもかかわらず、なぜか今回の「イギリス暴動」に関して私は沈黙する気になれない。(情報のフローを管理/制御する通信社はこの事件を完全に隠蔽している方向にある、と推測せざるをえないこともあって)この場を借りて、少し意見を表明しておきたい。





まず、<現在性>ということから考えて、あらゆる出来事は映像化され、世界中のネット上に流すことができ、それは「よいことである」という前提が機能している。この前提が共有されている限り、自分の撮った映像を見て欲しい者はいくつかの条件が整えれば、それを他人に見てもらうことができる。一方、それを享受する受け手側もまた映像をネット環境で即時的に見れるということを「よいこと」だとし、イギリス暴動の映像を見て、「今、ここでは見たり聞いたりすることができない何か」を見届けることができて、あれやこれやの感想を持つことができる。そして、何かを理解した気持ちになって、その気持ちを他人と共有したりもできる。それらのコンピュータ・テクノロジーによるメディアの拡散体制を全面否定しているわけではないし、むしろ、(むろん)、マイノリティが有効的に使用し、ネット上の、ひいては現実社会での特異点抵抗線になればとも思っている。だが、あらゆる事件、それも視覚的に派手な事件は、おおよそリアルタイムで映像化され、全世界に流通可能である、という前提が働いているということが疑いえない事実としてある限り、つい先日you tubeで見た暴動の映像(情報)は、どこかしら希薄なものとして目に映るしかないのだ。ジャニス・ジョプリンのアルバム名を借りて言えば、それは「チープ・スリル」でしかない。



さて、ここにイギリス北部、マンチェスターの一画にあるブティックに白昼、引火する男がいる。燃えさかる炎が画面を満たしてゆく。たしかにそれは非日常的な映像であるし、それゆえに(俗に言う)「絵になる」映像(ついつい見続けたくなる映像)である。たしかにナマの現実を撮影したものが、画面にそのまま定着している。画面はそれだけのことを伝えようとする。ブティックの店員は画面にでてこないし、引火する男がどこの何物かもわからないし、彼が引火する時の心境もまったくもって知らされない。このような、いっさいのコンテクストを欠いた短い映像(クリップ)は、出来事の突端だけを視聴者に届ける。そしてコンピュータのウィンドウをyou tubeから大手の報道会社のものに切り替えると、よく似た映像が周到に用意されていて、その脇に情報の文字列が確認できる。





それらは端的に「情報」であり、それ以上のものでもそれ以下のものでもない。遠くで起こった出来事が別段知りたくもないのに知らされる。ここに一切の<近代の謎>があるのだが、どういうわけか知ってしまったがゆえに、それらをより知りたくもなる。なぜ、いかにして暴動が起こったのか?と。僕や誰かにそう思わせるだけでも、やはり、映像の力はあるといわねばならないし、一方で、なんらの、誰かの知性を触発しないのならば、you tubeの映像は、やはり映像=情報に過ぎない、たんなる一過性の消費物でしかなかった、ということになるのだろう。





さて、僕は「ヨーロッパは呪われている」と思う。誰に呪われているのか。それは黒人にである。ここで(具体的な固有名をあげず)「黒人」と一般化して言い切ってしまうのも愚かなことではあるが、名を列挙するなら、精神分析医/学者のフランツ・ファノン社会運動家マルコムX、革命家のエルドリッジ・クリーヴァー、作家のエイモス・チュツオーラ(1920-1997)、そして黒人解放運動に少なくとも貢献した小説家のジャン・ジュネ。ジュネやファノンをフランス内部で擁護したサルトルをも含めて、ヨーロッパとは「白」と「黒」が渾然一体となり、しかし、それらが決して「灰色」として中和することのない苛烈な闘争体として、現在もなお続いている、近代の呪詛として、「ピアノの黒鍵と白鍵の鮮やかなコントラスト」のように続いているということに、ただただ愕然とする。(なぜヨーロッパの制度的なオーケストラには黒人がいないのか想像してみよう、それが制度的である以上に、どうしてか、ということを)。


黒と白の齟齬、対立、見せかけの握手、真に分厚い仮面同士の駆け引き、およそ確固とした垂直的な歴史軸を、決して曲げることのできない真鍮のように、灰色の中和性に落ち着くことなく、突如として、暴動が起こる。「また、暴動があった、また黒人がらみの暴動があった」、と情報として知らされるのだ。(つづく)