動物園ノート 1



上野動物園へ行った。かつての動物園の印象は、「動物が監禁されている、その悲惨さを鑑賞するところ」という程度のものだった。動物園にいるすべての動物は去勢動物で、これらを「本当の動物」だと信じ込んでいたら大間違いだ、という見解だった。なぜ動物園に行ったのか、特に理由はない。この世にはいろいろなものがあるし、だからなるべくいろいろなものを見ておいたほうがいい、という程度のものだ。動物園もすっかり「エコブーム」に便乗しているのだろうか、「檻に閉じ込められている」という人工性がすっかり払拭され、自然との連続性が檻の内部に確認できる。小川が流れていたり、木々の植え込みが充実していたりで、動物たちもきっと喜んでいるのではないだろうか。「檻に閉じ込められている」という病的な感じがすっかりなくなっていた。さて、動物園においてまず注目すべきことは、動物が「いる」か「いない」かに鑑賞者が翻弄されるということだ。「いる」と思って覗いてみたもののどこにも「いない」ということが判明して、がっかりさせられる、ということが日常茶飯に行われている。解説プレートに「○にいなかったら、△にいるでしょう。△にいなかったら、□にいるでしょう」と、丁寧に告知されているものの、しかし、最終的に□にもいないというケースにたびたび出くわした。「本当にこの中にいるのかどうか?」不安になって檻や窓の前で必死になって動物の姿を探す人びと。微細な動きに反応するべく目を凝らしに凝らしつづけ、ある瞬間に「あっ!いた!」と喜ぶ子供。「え?どこどこ〜?」と首を延ばす母親。「アレだよ!アレ!」指を指す子供。指さす方向を確認し、首の向きをグルっと変える僕。なるほど、少しだけ動物の顔が確認できる。「な〜んだあ〜あそこにいたのか〜。」と胸を撫で下ろす父親。



「いる」はずの動物が「いない」、入園料をちゃんと払っているにも関わらず、「いない」。ここでは「いない」ことのインパクトが「いる」ことよりも、遥かに強い場合があるのだ。この「不在の在」こそが、動物が「いる」ことの期待をさらに膨らませる。しかし、いつまでたっても動物はあらわれない。「ひょっとして最初からいないんじゃないのか?われわれは騙されているんじゃないのか?」しかし、ここで激怒することは許されないのだ。動物園においては「よく見る」「よく探す」ということが為されなければならない。もうひとつ、お目当ての動物が「動かない」ということにイライラしている人がいる。動物はちゃんとそこにいて、堂々と存在しているにもかかわらず、まったく「動かない」のだ。子供が「○○ちゃん、動いて〜。会いにきたよー。」と懇願しても、微動だにしない。なぜ「動かない」のかといってもはっきりした理由は分からない。餌を食べ過ぎて休んでいるのかもしれないし、たんに動きたくないだけかもしれない。そして、動物が「動けない」のではなく「動かない」ということが、人びとをイライラさせる。なぜイライラさせるのかと言えば動物は「動く物」なのだと人びとは知っているからだ。最大の期待は「動き」にある。ここでも、動物が動かないからといって「オレは止まっている動物オブジェを見に来たわけではないぞっ!」と立腹するわけにはゆかない。動物が動くまで、じっとじっと我慢し、目を凝らし続けなければならないのだ。



動物はこの苦行を人間に課している。なぜなら動物園においては人間よりも動物の方が優位性を誇っているからである。鑑賞者が強烈に動物に関心の目をむけているにもかかわらず、動物の方はといえば、一向に鑑賞者=人間に興味がないのだ。そりゃそうだ。(2009-12-07 つづく)