「2022年からの〈真の映画史〉」に向けての序説 #10

映画の話を聞くことは、自分を映画の方に引き戻してくれます。映画評論家というものは、彼らの仕事というものは、映画.comというインターネット上のウェブサイトおかげであまり必要とされなくなれました。それはとても良い事です。万人が評論家であるべきだし、批評家であるべきです。というよりも、人は1000円なり1万円なり、自分の懐から出し、渡した金銭と交換した商品なりサービスに関してはあれこれ文句をつけたがるものです。点数や★の数であっても、なにか自分なりに評価してみたいと思うのです。あれこれと言う権利を得たと思い込むのです。

 

 

横断歩道のペイントが禿げていて薄くなりすぎているという場合、それを見過ごしておくことは、危険につながる要素となります。子供が別のところを横断して、車に轢かれる場合があるからです。だから、役所なりなんなりに電話して「横断歩道のシマウマ模様が見えなくなっていますよ。」と伝えることはとても重要なことです。それは住民税を払っているから苦情をいう権利がある、という以上に重要なことです。しかも住民税を払っていなくとも、そのクレームなり助言を役所に伝えることができるのです。一方映画は、いや、映画でも音楽演奏でも美術館での展示でもいいのですが、「おたくでたった今映画を見ましたが、ひどい映画ですね。しかし、あの女優はなんて下手くそな演技なんでしょう!?」と映画館なり、配給会社なり、制作会社に電話することはできます。「お金を返してもらえますか?少なくともあの大根役者の分だけでも返金していただけたら…」ということができます。しかし、それらのアレコレの感想は、映画.com上でSNS上でなされます。しかし、現実問題として、出来の悪いジャガイモが返品でき、別のジャガイモをもらえることができるようには、映画を返品できたり、別のよりよい映画と交換できる訳ではありません。消費者は消費するのであり、消費が前提になっている限り、消費できなければなりません。ただ、そこに至らない何かがその出来の悪い映画にはあるということです。

 

 

時は金なりという言葉には一定の真理があります。2時間も時間を持っていかれる、という感覚は映画に特有のものです。(舞台の場合は、観客は、どこか、生の役者が、お気に入りの役者がそこにいるという感覚を持続させながら見ているようです。なので時間を持っていかれるという感覚は映画とは別の何かだと思われます)。それも椅子に固定されて、動けません。スクリーンと観客には完全に主従関係があるのですが、そのために、その主従関係をやりくりするために映画の中のカメラはあちこち動き回るわけです。と言うよりもあちこち動き回ったカメラの結果としての映像が定着した映画の中で……つまり、カメラがありとあらゆる複数の視点を提供し続けることによって、観客の視点を一つに、スクリーンの方向に固定するのであって、そこに映画の古典的な悪き強制力があり、また良さもあります。カメラアングルの多様性なり、フレームワークの多様性はこういったことにも関わっています。カメラ映像を介在しない、生の野球やサッカーの観客、生のパフュームや誰それのコンサートの観客とはまた違う何かがあるのです。

 

 

わたしは……わたしに限らず「全体のまとまりが…」とか「ここはいいんだけど、全体的には…」とか、結局のところ全体が、全体として気になっているという事態があります。全体とは言い換えると「全てを捉えている」ということで「全貌を明らかにできる」ということで、言い換えると「全知(全能)的な何かで」、つまりは「神だ」ということにつながっていきます。なので観客に「神になってもらえる視点を提供できる」映画がよりよい全体を持った映画であるといえることができるでしょう。「お客さまは神様です」は二重の意味でそうなのです。お客さんが「神」になり、主従関係における「主」になれる場合に、「その映画はすばらしい」となるのです。しかしそれも「すばらしい」と思っているのではなく、思わされている場合が少なくはありません。

 

 

わたしは全体的なまとまりを持つ映画よりも、どちらかというと離散的、分散的な映画の方が好きです。そして、非同期性、無関係性がより強調されている世界が好きです。要するに「全体的である映画」は押し付けがましいのです!それでも全体的であろうとしている映画を否定するつもりはありません。事実、面白い物語を作ること、それに準じた演出をほどこすこと、「妻は告白する」なり、「陸軍中野学校」なりを作ることは大変です。それは若尾文子市川雷蔵に大金のギャラを払うということとは別に大変なことなのです。

 

 

べつに「つながる」がいけないというのではありませんが、そこにはある種の恐れがあります。あの有名な「第三項排除」のことですが、それを恐れるあまり、人びとは動けなくなっているという事態もあります。集合すべきタイミングで集合すればすむことなのであり、いつも集合しているような錯覚を与えてしまう「繋がる」という事態がいいものとは思えません。