美術ノート 1

imagon2009-11-20








岡崎乾二郎特集展示 東京都現代美術館




東京都現代美術館で2009年10月31日より岡崎乾二郎の特集展示が開催されている。昨年秋、南天子ギャラリーでの個展を見に行って以来だから約1年ぶりになる。2008年の作品、(おそらくは初の)トリプティーク<NO.67、68、69>は岡崎乾二郎絶唱とも言うべき激烈さ、豪雨に叩かれて飛び散った花びらが、さらに靴で踏みにじられたような「蹂躙性/痛み」を讃えていて興味津々だが、ここでは「あかさかみつけ」を語るにとどめておく。



10年前から気になっていた作品、レリーフの「あかさかみつけ」シリーズをやっとのことで見ることができた。ウェブ上にアップされていた写真から想像するに、1枚のプレートに切り込みをいれ、折り紙を折るように展開されたものなのかと見た目で判断していたが、それぞれの独立した8枚のプレートが合体していることがわかった。



形に回収されない形とでもいおうか、定義不能な形とでもいおうか、それを見る者の「感性」や「解釈」をことごとく撥ね付けるような、又、より強い意味で、作品が対象として見られることさえも拒否しているような抵抗値がその形のうちに決然と封入されている。次のガントナーの言葉を想起したので記しておく。



「ひとつの絵画的な想像力は、対象的なるものの知覚可能性を断念するを要しない。けれども対象的なるものものとともに、第二の成分として、無対象的なものが混入する。何か副次的なものとしてではなく、あくまでも必然的なものとして。」(ヨーゼフ・ガントナー)



知覚属性を拒否させることによってのみ実現可能な無対象性、数学で言えば空集合のφが作品化されたとでも言おうか、そんなとらえどころのない不思議な感覚に囚われる。



また、カラーリングが見事だ。ポリプロビレンをサンドペーパーで擦ったり、擦ったまたその上から彩色したりして、同色系統においても、実にさまざま差異をはらんだ色彩の「触り」が伝わってくる。そして安易なコントラストの選択やグラデーショナルな配置を拒否し、なるべく「とらえどころのない=属性を持たない」感覚を色彩面においても実現することが目指されている。(ちなみにこのレリーフ群にはオカザキ・ブラウンは見られない。)



実際、赤坂見附(東京都港区)の交差点に行ったことがある人なら、すぐさま察知するかもしれない。「<あかさかみつけ>は赤坂見附のアナロジーとして作られたのだろうか、」と。その場所は直線性と曲線性、立体性と平面性が同時共存し、緩急のある動きの連続性、非連続性が多方向に延び、ひとしなみに<かたち>に回収され、固定化されることを一様に拒んでいるような「瞬時にしてその空間性を把握しきれない」場所なのだ。ただ、ちがうのは赤坂見附は四方に屹立するホテルなどの高層建築が、その交差点を囲うパーテーションのようにそびえたっている、このことだけである。



写真家の中平卓馬が、作品を見る目を「蠅の動き」に喩えていた。視線がどこかに留まるということは、蠅が止まることに似ている。蠅の動き、あるいは作品にそそがれる視線はどこかに止まったかと思うと、また飛び立ち、中空を舞う。しかし、「あかさかみつけ」を捉える視線は、おそらく視線の止まりどころを拒否しているばかりか、身体を動かし、視角をどこまでも変えていかねば、それを十全に「見た」とは言えない代物なのだ。あからさまに3次元作品なのだが、多方向的な視線を実現すればするほど、この作品を平面展開したくなる、「一体全体これはどういう形なのだろうか」と。その意味で「あかさかみつけ」にはもうひとつの次元が出来する。それは2、5次元である。



いや、上の記述を待たず、そもそものはじめから岡崎乾二郎は2、5次元の作家であった、と言うべきだろう。絵画作品においても「フラットネス(平面性)」と「フレーム(平面の限界としての枠組み)」を絵画の第一の自律的準拠枠、いわば普遍的カテゴリーとして捉えていたクレメント・グリーンバーグモダニズム絵画論を批判的に継承していることは言うまでもない。彼の絵画(ペインティング)は、豪奢なヴォリューム、(一見)偶発的なタッチ、(一見)ノンセンスなカラーリングによって、その表象作用をいっそうアンチフレーム/アンチフラットなもの、こういってよければ突発的(あるいは発作的?)な<反ー体制的作用の表象体>に仕立てあげている。おそらく一般的には次のように考えられているだろう、フラットネスとフレームの相互補完体制は、絵画の知覚体制において前提にもならない前提、いわば自然(じねん)の産物に堕している。そればかりか、フラットネスは所与のフレームが自然をもって保証し、逆のケースも同様に自然として客体化されることも自明視されている。しかし、岡崎乾二郎はそれらの「共犯関係」を意識的に告発することによって、絵画の自律性を徹底的に疑い、別の論理機構(もうひとつのゲームの規則)から、今なおもって蔓延する「イデオロギーとしての絵画」を逆照射しようとしているのだ。このラジカルなアッピールは今回展示されている全作品を貫いている。



付言しておく。岡崎乾二郎は、絵画におけるモダニズムの還元主義が、二次元性(平面性)と三次元性(立体性)へと分離したことへの全的批判を試みているのではないか。つまり、ハインリッヒ・ヴェルフリン(1864〜1945)は『美術史の基礎概念』において「彫塑的な視覚形式」と「絵画的な視覚形式」とを弁別/分離したが、ヴェルフリンを受け継いだグリーンバーグ(1909〜1994)が前者をヨーロッパのキュビズムに求め、後者をアメリカの抽象絵画(あるいはポスト・ペインタリー・アブストラクション)の唱導に求めた、その「二元論的単純さ」への再批判を試みているのではないか。



ゴミひとつポイ捨てするのにもためらわれる、都市空間のジェントリフィケーションが進むにつれ、空間のフラット化は極限まで突き進むだろう。遠近法によるコンプリート・コントロールは今や画家のものではなく、コントロール・カメラ(映画作家ジガ・ヴェルトフの言葉を借りるならキノ・グラース・・・機械眼)のものである。そして、スーパーフラットの権威、村上隆のことについてはもはや誰も語らなくなった(?)この時代、2、5次元というこの回収不能なアンチフラット、アンチポリフォルムの事件性は、公理的美術史に対して、大きな抵抗材を用意するだろう。この次元で、先達の2、5次元性の作家、フランシス・ベーコンフランク・ステラ今井俊満、白髪一雄、山口勝弘、トム・ウェッセルマンなどがあらたな慧眼をもって語られる日が到来するに違いない。



なお、同会場で、「アメリカの絵画1950sー1960s」も開催されている。ここでこっそりと告げておくことがあるならば、受付カウンタの手前にトイレがあり、その入り口脇にアンソニー・カロの彫刻「シー・チェンジ」(1970)が展示されているということだ(もちろん出品作品リストには記載されていない)。なぜ、その場所にカロの彫刻が置いてあるのか?これを考えながら用を足したあとで会場に足を踏み入れてみるのがよいだろう。最初に迎えてくれるだろう、ウィレム・デ・クーニングの「無題(女)」が君を待っているはずだ。(2009-11-18