制作ノート 3



■ 制作ノート3



「制作ノート2」でCの経歴をこしらえて中上健次的な物語世界(秋幸と浜村龍造の一触即発的関係)を自分なりに消化したい、と述べた。「Cは最終的にAとBを殺しにやってくる。しかし、Cは二人の目の前で自害する。」このテンション(緊張)を描くにあたって、破綻の必然性/論理性を自らに要求したいと思う。しかし、Cの経歴は作る必要がない、時間軸の中心はひとつ、つまり主人公とのものだけでよいと判断した。その変わりにCの性格づけをするにあたってのノートを書いておこう、と判断した。



Cの母親は堅気ではない。(父親とは早くに死別した)。母は場末のクラブ、ラウンジ、小さなライヴハウス歌声喫茶などで歌っていた。母親はオペラ歌手志望だったが、喉を痛めてあきらめたのだった。ガラガラの声ではオペラは歌えまい、そんなわけで、主に1920年代のシャンソンを歌うようになっていた。Cはグレにグレていて、母親とも仲が悪かったし、母もCとことあるごとに離れたがった。Cはチンピラになり、あるトラブルから左手の薬指を切った。チンピラ稼業から足を洗った後、ひょんなきっかけでジャンゴ・ラインハルトというベルギーのジャズ・ギター奏者のことを知る。ジャズ・ギタリスト、(実際に指が一本ない)ジャンゴに憧れたおしたが、しかし、ほどなく挫折した。ジャズ・ギタリストになることを夢見て、一生懸命練習したのだが、やはり指一本ないことが支障になったのだった。



Cは生活の必要上、アロンアルファ工場(時代設定的にはボンドだろうか)に勤務するようになる。「離れたものをくっつける」ということに異常な執着を持つに至ったのだ。Cは幼少期、母親に音楽ばかり聴かされて育ったためか、少しも勉強はできなかった。時にはむしろ音楽そのものを嫌悪するまでになった。当時は風貌(ルックス)も悪く、まったくモテなかった。そして頭が悪いので「自分がモテない」のをすべて母親のせいにしていた。



そんなCがBと出会うことになる。空気の澄む、静かな夜の町だった。大学生のBは当時、イキがって、(はやく大人になりたがって)安物のハイヒール(あるいはパンプス)を履いていたのだが、ある夜、急いで帰宅しようと早足で歩いていた(なぜなら彼氏が部屋で待っていたからだ)。そこで、ヒールの部分がポキン!と折れてしまった。その場にたまたまでくわしたCは、無言で、折れたヒールと本体を手に取り、ポケットからアロンアルファを取り出し、ヒールと本体をくっつけた。



これがCとBの最初の出会いであった。


Cの性格造形にあたって、留意しておくべき点を上げておこう。

Cの自害は「破綻」であり、「終局」であり、「終焉」である。それは「父」あるいは「父権」をめぐる、あるいは「父権」がかつてあった「時代」をめぐる一切の終わりである。<AとB>にとっての父は死んだ。あるいはとっくの昔に<死んでいた>。とっくの昔に<死んでいた>者がさらに<死んだ>。


いったん、徹底的な、また想像を絶するほどの「悪人」、また驚くほど単純な「悪人」をつくりあげてみたいと思う。この時点で「悪人=C=父」は、両義的な存在として捉えられる。削るのはそれからだ。

僕は自害についてはよくわかっていない。
だが、人が死ぬ、ということは分かっている(こんなことは小学生でも分かっている)。


(追記)

須原教授は自害した。あるいは自殺した。滋賀県の片田舎の小さな神社の境内で。須原教授は僕が大学の時にならっていた社会学部の教授だった(1990年代初頭、龍谷大学瀬田キャンパス、論理学の授業)。息子が父親の遺稿をまとめ、出版した。その書を渋谷のマークシティの地下の書店で偶然見つけたのは1年半ほど前だろうか。まだ読んでいない。近々その書に目を通すことになるだろう。