死刑ノート






(以下は twitterより転送)







座間市の9人殺害事件。容疑者の両親は姿をく
らます。というニュース。犯罪者の親の逃亡はきわめて日本的、とそのむかし柄谷行人は指摘していた。(そのときは宮崎勤の事件をひきあいにだしていた)。




自分の子供が犯罪者になるかもしれない、という覚悟のうえで子供を産んだりはしないのである。通常は。しかしそういう覚悟は必要ないのか、といえばそうではない。





この子は犯罪者になるかもしれないという確率は常にないとはいえず、なので道徳倫理を含めた教育が義務的になされる。にもかかわらず、犯罪が生まれるのは法があらかじめ犯罪と非犯罪の境界をつくっていて、その先に極刑=国が犯罪者を殺してもいい ということが法的に守られているからである。





死刑のトリッキーなところは全員一致で悪=極刑と認めても、すぐに殺さずに時間的に遅延に遅延を重ねて最終的に殺すことにある。それは(情状酌量も含めて)(容疑者の)反省可能性を見込みながらも、しかし、死刑を先延ばしにすることによって逆に反省を遅らす、ことである。





というようなことをかつて造形作家の岡崎乾二郎がいっていたような気がするが、出典はまったくもって失念してしまった。






要するに死刑とは反省を遅らす道具としてのみ死刑たりえる。そういうものとして死刑は反復している。ので、ついに反省はなされないまま、死刑は次の犯罪を待つ。