勉強会 予告



勉強会を開催することにした。
テキスト中心ではなく、プロジェクターによる参考映像資料の上映と、僕のパロール中心のレクチャーになる。
が、資料や図版も存分に使う。

そもそも「教える」という立場(任務)には甚だ自身がないし、今まで避けて通ってきたけど、あまり気負わずに
ゆっくりやれればと思う。すぐ放棄しないように注意したい。






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ようやく少しおちついて、デスクトップのアイコンを整理していたら、近い過去に書かれたものが出てきた。アップロードする必要もなければ、しない必要もない。残骸ではあるが残骸でもない。読み返すと高橋悠治の文体を真似ていることがあからさまに分かるが、それは悪くない。2008年1月から6月までの日記やメモの断片から再構成したものである。だいたいは時系列に沿っているがこまかい前後関係は正確ではない。




●「映画をつくるのは、方法があったり、なかったり、気ままであったり、気ままでなかったりする、そういうかっこうでつくられるものを待ちながら、あれこれ手足をうごかしたり、言葉をさがしたり、目をほそめたり丸くすればよいだけだ」

映画づくりは
それに参加する複数人の筋肉の弛緩や収縮
骨の構造に順じたうごき、運動神経などを土台にもつ
頭と体がつながっていることは
頭もおぼえているし、体もおぼえている

これはどうしようもない
つくることのはじまりは おぼえていることの持続があること
そういうことに起因しているのかもしれない

天候や気温の微細な変化に対応する
見る、聞く、
見つつ聞く、聞きつつ見る の感覚が
常態からわずかにずれたかたちの
ゆらぎを孕む それらのダイナミズムが活かされる撮影現場

ひとがもし機械ならば
映画づくりにはひとはいらないだろう
そうなれば映画は機械がつくってくれるのだから
その意味で映画の機械性、例えば1920年代 
ロシアでジガ・ヴェルトフがとなえた
映画眼(映画機械眼)、キノグラースとは見せかけのものだとも思える


機械というコンセプトはデカルト哲学を経由した
産業革命以降のヨーロッパのもの
だが技術となるとヨーロッパだけのものではない

水墨画
篆刻
凧上げ
遊牧民のテント式生活

これらはマシニックでもないしメカニカルでもない



まったく制約のないところで作る
完成させるという制約すらない
これは非ヨーロッパ的なプロセスを重視することである

作品という観念は
それが国家からであれパトロンからであれ
予算と時間をあたえられた生活内での枠組みで
納期に間に合わすために
焦り、不安、を解消できずに
結果できあがったものであるにすぎない
それは立派な仕事かもしれない

しかしひるがえって
制約のないところでかたちにすることだけをめざす
めざすための規則を創出しながらつくる

これは立派な仕事ではないかもしれないが
世界の外をめざすにはこれしか方法はないだろう

途中で放棄している作品がいくつかある
放棄したままで新しい作品の構想が頭をよぎりはじめ
気がつけばそちらに手を染めている
放棄した作品は じつのところ放棄しているとはまったく思っていない
膨張する時間のなかで いつか再組織することを前提している
続きは夢見られるだろう また
別の断片との組み合わせから再出発して
思わぬ展開をとげるかもしれない

これは甘えたかんがえか
そうとは思わない
並列的に作品をつくってゆくかぎり
不可避なことである
ここしばらくはこのやりかたを続けるだろう

上映のことはあまり考えていないが
社会的制約を内蔵しないようなつくりかた
風通しのよいつくりかたをえらぶことに専心することを
のぞんでいる

さて 2006年に早稲田大学の7号館で上映した『RED RED RIVER』
人に頼まれてやった上映後の座談会はトリスタン・ツァラ村山知義荒川修作ボードリヤールを研究している塚原史さんとだった

その時なにを話したか
もう覚えていない
話しそびれたことならぼんやりと列挙できる

人間をobject(対象/物)として捉えると 逆説的に
人間の感情面や情動面が浮き彫りにされてゆく

多数派の物語に依拠しないかたちで
いかにして少数派の物語を構築するかがむづかしくなってきている
物語を選択しないこと この物語

物は語らない 
語るのはひとである
物が語ったと思えるのは
ひとの想像力にすぎない
しかし
そう言い切れるのか
ここがむづかしい

物を見なくても物をかすかに感じる また
物をあからさまに感じるがそこには物はない

そこに物がある、というだけで
それをじっと見つめていると
時間が錯綜しはじめる
そんな物もある
ありふれた なじみのありすぎる物のでさえ
その物の特異や脅威をちらつかせる

想像力をあてにする想像力
そこになにがあるというのだろう
シュールレアリスム、超現実主義は矛盾したものの止揚にしか過ぎない

現実を超えることはできない
なぜならこの世には現実しかない
想像、妄想、それらはそれらをうけいれることによって
現実となる
岡崎乾二郎のエッセイ「現実について」を参照せよ)

1920年代
新ヨーロッパ芸術の強いうねり、拡散、流動
リズムと色彩と図形だけに抽象したハンス・リヒターの映画の先駆性
そこには数学的な原則だけしかない
フラッシュアニメーションなどにみられる
単純な動きだけがある
そして
人間が映っていなくても映画はつくれるといったジル・ドゥルーズ
映画作りのすべてをひとりでやろうとしたキートンチャップリン
そういった極端さの追求によって
力を強める方向性もあるだろう
制作の様式を変えることによって方法論も変化する
今は反省と啓蒙の時期なのか
と 頭をよぎることもある

いまなお
大きさ 多さ 強さ をもとめるアメリカ国家の抱えるあいかわわらずの座標 
ハリウッド
それを模倣しながらもアメリカにマゾヒスティックに向き合う
日本人の座標 
宇宙という外敵 仮想敵を疑似餌とし、無自覚にアメリカの強さを
世界にひろめることで自国の同一性 
パトリオッティズムを裏側から支える 
それがナショナリズムを蔓延させる動因だとも知らずに
その保守政策にいまだに追随しているかのように見える 日本の映画資本主義

なにをやるにしても
予算は発生するが
ミュージシャンや画家は映画人ほどは問題視していない

グリフィス以降
映画制作において予算というコンセプトは一定の強制力を行使してきた
予算によってある程度映画のよしあしが方向づけられる
だがそれは
映画産業の古典的ヒロイズムが疑似的なオーソリティ
必要としてるだけなのではないか

映画に金をかけても人はそんなに喜ばないのではないか
「史上」とか「最大」とか「最高」などの擦り切れた文句
うすらさむいアメリカ帝国の宣伝法

また
監督や俳優、また制作会社が創造的な気勢をあげるのではなく
会計士や弁護士が口出しする映画の去勢と虚勢は
使い捨てのアイドルや純粋記号と化した俳優を
シュミラクル組織において
とりもなおさず継続させているだけではないか
流れない水はかならずくさる


100年少しの映画の歴史
それ以前は絵画や音楽、演劇やオペラがヨーロッパ文化の主流だった

映画が美術史に負うているものは多い
カメラオブスキュアのさきがけとも言える
フェルメールの模写原理やその応用としての遠近法 
マネがこころみたようなフレームの複雑化 メタフレームとしての絵画
ドイツロマン主義が追求した光と影の弁証法
CCD画像に先行するスーラの点描画
イッテンやクレー、カンディンスキーの色彩理論


IMAGEという概念を別な角度から再検討するための
仮説概念をつくること この技術がむずかしい
かんがえているのはIMAGEに回収されない何かが必ずあり
非回収のメカニズムをどうやって論理化するかということだ
「そういうイメージ」と言った時に、イメージは流動的であることをすでにやめている その場合、死んだイメージこそがイメージだ

安全 安心 無害  
ぬるま湯にひたりすぎて 肌がふやけていくように
イメージは くさらせてゆく 何をくさらせてゆくのか
それが暴力だとも気付かずに
生きながらに死んでゆく

流通し、一般化され、共有されていると前提されているイメージ
だからこそ合意を言語で確かめるのではなく、その言語の遅延の埋めるように
イメージという語が選択される
そこで細かい差異が捨象されることによってイメージが共有されるようになる
この原理にもならないイメージの原理



●タマ川べりに位置する競輪場の観客席と屋外にあるテント張りの茶室で対談を撮った。快晴。場内食堂や券売り場は灰色の男たちでにぎわっている。家族を持たないものの気楽さ、その背後にある影の色。寒いためか観客席はもののみごとにからっぽで見通しがよい。主にテーマに沿った即興的なダイアローグを撮る。スタジアムにひびくアナウンスが大きく、役者の声をときおりかき消すためマイクに延長シールドをつなげ、口もと近くで声を拾うようにする。延長シールドはその太さが2分の1くらいだが、音質に支障はないようだ。トラック内側のフィールドは酒やなんやの巨大広告物。電光掲示板の背後にレンガ色のマンション。古代ギリシャのコロセウムもここくらいの大きさだったのだろうか。


●映画館は宇宙船と手術台の妥協案だった(高橋悠治) シュレディンガーの猫 情報理論を可能にしたのは映画館だった それでは 箱を映画館のアナロジーとしてとらえることができるだろうか カメラオブスキュア ファンタスマゴリア フェルメールが写生に使った箱 東洋的観点では 紙芝居 古くは傀儡劇 いづれにしても内と外の境界をつくる それが見え 共有される それが箱のちからだろうか



光についてかんがえる必要がある 光とは何か
この問いに答はない、と思われるが、すこし考えてみよう


それは見えることを可能にするいっさいの原因であるとする
しかし、それはまちがっている

見えることを可能にしているのは
光ではない

見える、ということは ひとつの判断であり
見えの帰結である
そこに介在するのは
光であり、光でない
光でないものは光であるものを、光であることにする

それは人間の意識がそうさせている

見えが着地点をさだめ、さだめられた一つの点、その場所から見えたという
わずかな解答が得られる

見えたことだけが光となりうる
それ以外はあいまいな見えの領域をうろついているだけである
それは光というよりも光の反射であり、相対的なものである
さて

見ると観るのちがいはなにか

観るはよりはばひろいイデアをかかえもつ人間の静態的な所作であるように思える
一方 見るはよりせまく、より集中的でありながらどこまでも散漫で拡散的な動態的所作であるように思える

光が光る、これはニーチェが察知したように
文法的なフィクションだとしたならば
光はただ光であるばかりだろう

光りは光っているのではなく
光ったように、光っているもののように見えるだけだ


●神は天地を創造された。地は混沌としていた。神が「光あれよ」と言われると光ができた。という旧約聖書、創世記の冒頭のことば。 


●線形理論、ヘーゲル史観、それらリジッドなイデオロギーに基づいた映画づくり、またはセンチメント、ポエティクな感性を疑似餌として、全体的な構造をささえもっているような映画づくり これらは来年以降4、5年はまったく必要なくなるかもしれない 集合論 パワーセットという考え方に基づいた映画づくり ラッセルの数学基礎論  確率微分方程式 0と1からディジタル批判をディジタルな回路でおこなう試み まず 音と映像を分離することを疑う 音1の影響化にある映像1 音2の影響化にある映像2 など を創出するやり方 これを現実の音像(klang-bild)環境とあてはめてみる などなど

いくつかのpower set(60分の映画なら50個、20分の映画なら16個くらいか)をアイデアの段階で準備する 映像は音響にしたがっている この主従関係 二元論を徹底的にうたがう 関係そのものを創出することによって 関係をずらしながら別なもの、別な感覚、別な印象へとみちびく試み

●呼ばれて赤坂見附まで、おいしくもなくまずくもない料理、必要な会話がみあたらない 


●むかし住んでいた京都には情報や娯楽が渦を巻き、ひとびとのカネをより多く、より速くとりこんでゆく、というような消費のダイナミズムは東京よりも希薄だった、だから本を読む人が多かったのか、勉強家や討論好きが多かったのか、良質なバロウズファンは周囲に何人かいた。だれがいいだしたか、追悼イベントをやろうということになり、クラブメトロを一夜かりきって、イヴェントを行った。その時、バロウズをあつかったドキュメンタリー映画を上映し、そのあとに自作の短編を流した。バロウズから影響を受けたミュージシャンも多数いる。パティ・スミスジェネシス・P・オリッジ。ジョン・ゾーンもその系譜につらなるのだろうか。バロウズは論理家だった、と言えるだろう。麻薬を摂取すること、カットアップで世界をいじくることも彼にとっては論理的行為のひとつだった。中期のSF、カットアップ三部作のひとつ、とくに『NOVA EXPRESS』を読めばわかることだ。(ビートニクはもうはやらないみたいだが)ビートの括りで捉えきれない多様な活動をしていた。



●1995年あたり、岡崎乾二郎が書いたテキストに、映画における「非同期/無関係性」をあつかったものがあり、わかった気になって『ネッカチーフ』という映画をつくり、何年かのちに京都学生映画祭から話がきて池坊女子大学で上映した。映画を系列性から捉えることは映画制作を20世紀が発明した「編集」という考え方にアクセントをおくことだ、といえるかもしれない。かんじんなのは「非ー系列」をもとりこむことによって映画にいくつかの出口をつくってやることだ。そうやって映画は風通しのよいものとなり、見るものの想像力をつついてくれる。系列の中に非系列的要素を持ち込む。



●映画の撮影現場は世界にできた一時的な突起物、イボや腫れ物のようだ、と長らくかんじていたが、今や世界の方がすでに病気なのか。撮影そのものが外科手術なのだろうか。



いつのまにか夜になった
ひるまかんがえていたことをおもいだそうとする
記憶はすでにあいまいだが、記しておく

生きること と 生きている状態はちがう
生きている状態が 生きることを 支えもっている
生きることなく過ごしていると生きることを忘れる
それでも
たまに生きたと思えるときがある
わずかな震動をたよりにかたちを組みかえる万華鏡のように
生きた瞬間から 別の模様をつくる時間がはじまる

ところで 生きることをかんがえる余裕すらない
なぜだろう

生きているのでもなく 死んでいるのでもない
生きるのでもなく 死ぬのでもない
そんなことがありえようか 

楽しいことがある
それは楽しいからそう言える
楽しみに溺れてゆくうちに 楽しみは麻痺していく
それは結局楽しくはない
なぜか
溺れる前に楽しみを捨てなければ
楽しいか、楽しくないかの判断をしなくてはならない
これは楽しくないばかりか
楽しみから疎外されていることを確認することでしかない

「遊びをせむや 生まれけん」
どこで知ったのか 
これは好きなことばだったが
遊んでばかりいると
生まれないことがわかった

街街をうろつく
視界が変化する
広告があるがそれは見たくもない
見たくもない広告が目前につぎつぎとあらわれ
視線をそむける 焦点をあわせないようにする
すると
そこには見たくもない人間の顔がある
人間がいすぎると互いに顔をそむけあうことに慣れ、
人間はまったくありがたいものではなくなる
ありがたくない人間どうしがたくさんいて
そんなところに溺れながらに時を過ごし 
いったい何になるというのか
それを無自覚に続けることは苦役だ
そして
苦役を苦役と思わないところに
現代の病があるのだろう

どうすれば楽に生きられるか
これをかんがだすと
苦しむようになっているのか


学ぶことはまねぶこと まねすることから学ぶ
学ぶことの基本にたちかえろう
学ぶことを放棄したところで わたしはできあがり
できあがったとおもいこんだが最後
急速に力をうしなってゆくだろう


●とるべき方法は
完成していないもののの強さ、身軽さをもとめることだ
もとめてももとめたりないほどに


●小鳥がえさをついばむように
覚えておくべき名前があることを知る 


●思うに映画とはおおざっぱな概念であり、肌理のあらい、まずい食べ物だ。ニーチェが神というコンセプトをおおざっぱなまずい食べ物だと言ったように。


●言葉がある、これは仕方ない。
言葉があるので言葉を使う、これも仕方ない。
かんがえることは言葉でかんがえることだ。


●私が思うのではなく、私において思いが通過する。(それと同様に私が食べるのではなく、私においてはらが減り、食物が通過する)。
漠然とはしていてもかんがえが頭をよぎる。さまざまな言葉が浮き出てくる。うき出てきた言葉が着地点をもとめる。もとめていると判
断した時に、言葉を定着させようとする。書くことがはじまる。書いているうちに思いもよらなかったことが、頭に浮かんでくる。思い
がどこかに定着して欲しいと言っている思いもある。紙、デスクトップの白い平面に、生活の余白に。沈黙は下品だ、戯けて(お道化て)
いるほうがましだ、とニーチェは言った。しかし、沈黙が必要な時期にはそうしてる。ヘルダーリンの中間休止、カントの超越論性とは
反省(内省と対立する反省)の実践であり、あいまいな流れを断ち切る鑑(かがみ)である。





●舗道がきれいになった。現代はなんでもきれいであればよいということになっている。どこもかしこもツルツルの表面が増えてゆく。なんのためにか。京都タワーや武道館の設計者として知られる山田守が中心的存在だっただろうか、50年代後半から推進されていたタイル建築は衛生という観念を具体化したものだった。それはツルツルであるがゆえに衛生的たりえ、まずは病院や銭湯が導入しはじめた。現代のツルツル化は少し違うニュアンスがあるだろう。ビルの敷地内に死角をつくらない、遠近感を統制し監視カメラの目のとどきやすいよう物理の配置を促す、つるつるであればモノが目立つ。人間もモノだ。国家は言う、モノもついでつるつるにしてしまおう、男性用化粧品の売れ行きは延びるだろう、男も女のように美容にはげむだろう、それで女は喜ぶのか。




●なるべく外をブラブラし、ひろびろとした視界の前にとどまり、そこでいったんおちついて考えることを選んできた、また、そうするようにつとめている。陽光、木漏れ日、さわやかな風、適量の酒、(そして最良の音楽)がおともをしてくれて、可能な限り、目ざわりな視聴覚情報はよせつけなかった。(死守すべき孤立もあるにはある)。帰宅しても呑むことがままある。記憶の外で、まだ充分に酔っていないのだ。酔っていないという状態はからだが覚えていて、それを脳につたえているので、脳が自ら<非ー脳>をめざすべく指揮をとりはじめるといったおかしな状況に陥る。帰宅して呑むというのは、呑みたりないという欠如の弁証法の内部で説明できる。一方で閉じられた部屋はむしろおっくうだ。窓を開ける。風が舞い込む。そんな季節にはやくならないものか。問題は掃除か。部屋を理にかなったかたちで整頓するということは掃除をたやさないことと同じであり、掃除を愛するということはゴミやホコリを愛するということでもある。ゴミを無視しない。だからキレイになる。


●おそらく黙って「やる」タイプ、不言実行人ではない。だからと言って盲目的に周囲に言い散らすというわけでもない。しかるべきタイミングでしかるべき人に「これからこれこれこういうことをやろうと考えている」と言っているだけだ。しかし「言うだけで満足する(してしまった)」ということもしばしばある。それは「最初からやる気がない」というのでもない。「言って自分に追い込みをかける」(自分を窮地に立たせる)というのでもない。それは「その時、その人に言いたかっただけなのだ、」と言い聞かせている。これでいいのだ。


●四谷の午後、雨らしい雨が降り続いている。なぜかスタッフと「写実」の話をする。クールベ高橋由一の時代はもはや訪れないのか、と嘆かないわけではない、たいした知識があるわけでもないが、彼らの偉業を拙い言葉で説明しつつ写実というやや古めかしい概念について1時間ほどことばを交わす。写実は死んだわけではない。それはなかば倒錯的に携帯電話のカメラやデジカメで行われている。プリクラは虚飾を前提しているから写実的媒介をすっ飛ばしている。いずれにしても、もはや写実という概念は葬りさられているように見える。にもかかわらずあらゆる撮影行為は写実を前提しているのではないか。前提されているが、気付かれない、気づいたとしてもなぜかしっくりこない概念、写実。つまり写実を内面化せざるをえない時代なのか。現実と写実の相関関係は微妙にズレている、またそのズレが増幅されるしかないのが現在なのか。「本当の像」は「本当の像の感じ」にすでに充填されるしかない。ゆえに本当の像はないと前提される。この不透明性が現在的な像の位相を占めている。あるのはうつろいやすいイメージだけか。


モノがあるのは確かである、その確かさゆえにモノを見やる感性はうつろいやすくなる。この受動性ゆえのニヒリズムが写実欲を再びかきたてる。あるかなしかの循環。倒錯的能動性。しかしその循環の起因(牽引因)は像そのものにあるのではない。撮り手に内面化されるしかないリアル(現実)がそうさせている。写実することによってリアルが再び塞がれる。みんながカメラをなにものかに向けそれらを自前のウェブログに発表し、自己充足できる、また日々の証拠物件(私が生きたアリバイ)になりうる。虚構的であっても虚構的な証拠物件になりうるので、それは、その行為遂行性はむしろ写実のカテゴリーに属する。それはそれでよいのではないか。


話かわって現代生活において1ヶ月かけてとうふを写実的に描くことの贅沢。この贅沢を選択しない現代生活のきぜわしさ。またまた話が変わる。日本においてなぜ坂本龍馬が人気があるのか?彼の像が写真に残っていて、なおも複製品がごろごろあるからだ、たんに上野彦馬が撮ったからだ、というちょっとした仮説。もうひとつ、時代劇に出てくる馬のサイズはすべてウソで、当時の馬のサイズはもっと小さかった、むしろロバくらいだったのではないか?明治維新の時、フランス軍隊の行進のスタイルを輸入ー模倣しつつ、その時期に外国の種馬と交配させたから現在の馬のサイズになったのではないか?仮説をたてる、綿密に調べ上げる。それがドキュメントだ。雨は止まない。


●気候の変動が激しい。ゆえに気温も。その変拍子に体はすなおに同調する。気は許せないとは分かっていても、例年のごとく3月は調子がわるい。しかしこれは病気ではない。自然なことだ。新入社員のリクルート姿の群れ、この集団にたちあうとなぜかゆううつになる。笑劇だ。


●和音には飽きた 拍子にも飽きた 飽きたことにさえ飽きた それでもどこかで 音がなる 鼓膜は開いたままだ 疑似耳 i-podで隠す 脳細胞の壊滅プロセス 救いはない 救いはある 死なないと生きれない 生きたと思ったら死んでいる
なぜもっと単純にやれないのか 問題がないことの問題 これに気付かない瞬間の集まり   


●ことばのやりとりに対して撮影が少ない。ことばを制作プロセスに介入させない方法はないものか、ないだろう、言葉に対する不信がつのるのはこういう時だ、と言葉でいうしかない 与えられたものをすなおに享受できないでいる 


●再度『水牛楽団のできるまで』。むかし買った三原色ジャケットのグバイドゥーリナを聴きながら。1980年の高橋悠治 活動的 こんなにも集会 政治と音楽のオルタナティヴではなく 場所と経験 経験を呼ぶ場所から ランダムに拡散してゆく動き 

●多くの動画編集ソフトでよくあらわれる「タイムライン」という時間をあつかう線のメタファーは音楽作曲における「譜」ではついにありえない。

●1日3食というリズムは近代社会の基盤をつくった工場労働と密接な関係がある。(キース・リチャーズが指摘していたらしい)

●ひとりでできることはひとりでやる。できるところまでやる。どうしても、という地点でひとにたのむこと。ひとり、身動きがとりやすい。強くなる。肝がすわる。これは重要な訓練。


●贈答品はモノである モノに思いを封じ込める それを送る なんのための儀礼なのか 思いを封じ込められたモノは 憑き物としてのモノになる 思いに憑かれていたわたしは 憑かれていたことによってかろうじてわたしたりえていた(と、思い込まされていた) 憑き物がとれたので身軽になる それも錯覚か 思いを手放した モノを送ることによって 手放された思いは モノという乗り物にのって どこかへ行った 思いから開放する手段、方法をしんじること それが贈与文化の価値だ わずらわしさはモノに乗って飛んでゆく わずらわしさを浄化するために 贈答品をおくる だが、おくられたその時に世間が再編成される あらたな世間がつくられるとわかっているだけに深刻な儀式たりうるのか

なぞなぞだ
  
返礼の脅迫は送られた者の想像力の領域でためされるだけ
だから、返礼はアプリオリではない 他人の判断にまかせるだけ あわれなのはモノではない モノはどうしたってモノであるだけだ

他人の想像力をあてにする想像力
これがあわれなのだ 


赤坂見附の清水谷公園で花見。香当て遊びがとりおこなわれる香宛のすぐそばなのでほんのりとかぐわしい香り。桜をながめやっていると「これは点描画だな」と合点する。びらに切れ込みがはいっているためか、空隙が散在し、全体的にかろやかに見える。写生でもするか、とおもいたつ。スーラのように桜を点描しても少しも面白くないだろう、水彩絵具で描くともっともらしすぎる、描くなら油絵が面白いのではないか。桜はどう見てもステレオタイプなので撮影する気にはとうていなれない、これだけ政治的な花もないだろう、都会の植樹も環境庁の管理下にある、人々が集まるところを決め、人の流れを一定方向に、はみださないように統制させる視覚的な装置となっているように思える。



朝はやく起きて制作にはげむ 設計図 コンセプトシート 呼び方はなんでもいいが それに目を通してから はじめる 写真をプリントアウトできる自販機が広まってきた。(それにしても真を写す、という意味あいはすこしアナクロニズムではないか)デジカメのSDカードとデジタルビデオカメラについているメモリースティックを持っていってあわせて15枚ほどプリントする。メモリースティックの方は動画から1フレームを選択し、JPEG化したものだから画素があらい。テレビモニターの画面をとったようになる。


●ダイヤモンドのそばにダイヤモンドを置くとダイヤモンドはいっそう輝いて見えるだろう。かわいい女の子がかわいい女の子と一緒にいると互いのかわいさは相乗効果によってよりいっそうかわいくなるだろう。ダイヤモンドのそばにかぼちゃを置いてもそのダイヤモンドはそのダイヤモンドのままなのに。そんな話をした。 


●今撮影しているのは、ボーイスカウトの入門書と戦争遺跡についての書物に目を通して、ぬきがきしたメモから出発した。20世紀初頭、バーデンパウエルという人がスカウティングメソッドを作り上げ、軍隊の予備軍的な組織をおこなった。それが60年代に日本に飛び火してスカウト団は全国化した。


●イメージ それは何か イメージとはこれこれこういうものであり、こういうことだ そういいきれるのだろうか 小説にはイメージはない そこには言葉のあつまりしかない レモン そう書かれているだけで どうしてレモンを想像することができるのだろう あのかたち あの重さ あの色彩を ラジオ そこにはイメージはない 声 音 言葉しかない ラジオは何も見せない しかし レモン パーソナリティーが そうつぶやいただけで どうしてレモンを想像することができるのだろう あのかたち あの重さ あの色彩を あのかすかなくぼみを