映画ノート 12





■  ロベルト・ヴィーネ  『カリガリ博士』 1919






昨日にひきつづき1919年の作品。・・・『カリガリ博士』はホラー映画の起源にあたる作品だといわれている。それどころか、サスペンス映画、フィルム・ノワールの起源とさえいわれている。映画史における「内面の発見」の時代、そのはじまりである。さて、ここで、ホラー映画というジャンルがなぜ映画と親和性を持つのかを考えてみたい。ひとつめは、空間認識にかかわることだ。まず、われわれの暮らしのなかでは、「こっち」が発生することによって、必ず「あっち」が発生する。これはあまりにも自明なことだ。「こっち」が、より親和的に作用する限りにおいて、「あっち」は非親和的に作用する。「あいつは誰だ?」「あっちはどこだ?」「あれは何だ?」などなど、この「彼岸の不可知性(謎)」があるかぎり、「此岸の自明」が確定する。「あの星は何だ?」手元にある星座辞典で確認して、「ああ、あれは●●星だったんだ」と、われわれは安心するのだ。これは単純な二元性の設定である。あらゆるホラー映画は、しかし、この二元性を最大限に利用して、いわゆる「恐怖感情」をつくり、操作する。操作とはカメラアングルとモンタージュを基軸にもつが、それによって対象を遠いものにしたり、近いものにすることによって、観客の感情をコントロールし、「恐怖」を煽るのだ。そしてライティング技術が恐怖に拍車をかける。・・・光それ自体は、この距離感覚を均一にしてしまう。こっちが明るくて、あっちも明るいのでは、では「暗さ=恐怖を煽るモメント」をどこ設定すればいいのか?それは光だけによって作ることはできない。しかし、かんたんである。影を導入すればよい。光に物体をあてることによって、影を生成させ、影を動かすことによって、光が同一的な作用をもたらすものではなく、一方の暗さの極限としての「闇」の出現を予告させるものとして、利用すればよいのだ。ホラー映画一般は、<光−闇/近い−遠い>という相対的運動性をいかにして開発するか(いうまでもなくいかにして影を利用しながら開発するか)によって、その是非が問われることとなる。この次元においては、物理の遠近法こそが心理の遠近法に先行するのである。映画の形態は<遠い−近い>の視覚的操作を、運動としてみせることのできる格好のメディアなのだ。






わたしはごくあたりまえのことを言っている。ところで、17世紀、ルネ・デカルトの「延長」概念は、「コギト・エルゴ・スム」の懐疑生成と一対になっている。「われ思う、ゆえにわれあり」というよくしられたテーゼは、「疑う」の極小化、懐疑微分化過程そのものであり、「こっち=自己」を「よりこっち=より厳密な自己」として規定してゆく「疑いのミクロ化」の過程そのものである。デカルトに先立って、(これはライプニッツの時代だと思うが)アストロノミーの進展、天体望遠鏡の発明などが「延長の観念」や「無限の観念」を用意したのだともいえるだろう、だが、それゆえに、一方で、「内側にも延長する」という逆ベクトルの作用を作動させる「歴史的な要請」があったのだと思われる。簡単に式化すると、「あっち=x」と「こっち=y」の連立式において、「あっち=x」を求めることによってのみ「こっち=y」の解が得られるということである。「y」が「懐疑の過程−怖いという感情の内実」であることにおいて「x」は「解明の過程−恐怖対象に対する理性的な判断・克服」として成立する。だいたいのホラー映画のパターンは前半に「x」を提示して、後半に「y」を提示して終わる。怖いものが怖いままで中断するホラー映画は、ドラマとして成立しない。恐怖はまず<非−対象的>であり、恐怖の克服はそれを<対象化>させてゆくことにある。こういった単純な原理によってホラー映画の人気は成立している。・・・ホラー映画というジャンルがなぜ映画と親和性を持つか。ふたつめはもっと単純明快な理由による。それは「すべての映画館は暗い。」これである。画面に何も映っていなくても(黒味の画面がえんえん写ってるだけでも)「怖くなる可能性が高い」ということである。と、いうことは「映画館はお化け屋敷の延長物だ。」と、捉えることもできるだろう。ホラー映画との親和性は、映画それ自体を包み込んでいるハード面において先行的に現われているのだ。






以上が『カリガリ博士』を見ながら考えたことである。ドイツ表現主義がどうのこうの、という話はあえて、やめておいた。






備忘録
アイリス・ショットが「寄りと引き」を用意した。サイレント劇映画における「注視」という観念のあらわれ。/水平パンが一箇所でてくる。4人で古文書を読むシーン/ルノワール、モネなどのフランス印象派に対するドイツの反発。ゴッホだけを擁護した表現主義の画家が、『カリガリ博士』を用意した。/この映画が衣笠貞之助の『狂った一頁』(1929)を用意した。あと、溝口健二の『血と霊』も、よく知られている/