映画ノート 11




女優リリアン・ギッシュ。グリフィスの奥さんだとずっと思っていたが、生涯独身だった。








■ デヴィッド・ウォーク・グリフィス 『散り行く花』 1919





花(美少女)が散る(死ぬ)78分のサイレント劇映画である。原題は『BROKEN BROSSOMS』で頭韻を踏んでいる。冒頭字幕で示されるのは、映画全体において「鐘の音を響かせる」ことであり、つづけて中国の仏教徒が鐘を打つシーンがあらわれる。しかし、鐘はそれだけではない。もうひとつの鐘がある。それはボクシングのゴングである。その響きは戦闘開始の合図であり、ルーシーの父親、バロウズが、(口をへの字に一気にひんまげて←この演技がすばらしい)血気盛んになるためのサウンド(音響)なのだ。もちろん、強豪「スラムの虎」を打ち負かし、勝利の美酒に酔いしれるためである。・・・二つの鐘の音、それらをシンボリックにとらえると、前者は「東洋の叡智」であり、後者は「西洋の野蛮」である。前者によって、後者を啓蒙する、このイデア(理念)に基づいて、映画の前半が描かれる。舞台はイギリスのスラム街であり、娼婦がたむろするアヘン窟から、スラムは捉えられる。後半は事態が変化してゆく。バロウズの娘、ルーシーに対する虐待。それは、「お前はなぜ、ちゃんと笑えないのか?」という意味不明の憤怒(了解不能の父権)によって、行使される折檻とも言える虐待である。ルーシーは、鞭打たれ、のたうちまわる。だが、彼女は抵抗をすでにあきらめている。バロウズの靴の汚れを今着ているスカートの裾でぬぐうことすらできるのだ。そして、中国からやってきた仏教青年、イエローマンがやっている店の前で彼はうなだれきっているルーシーを拾う。イエローマンはルーシーに一目惚れして、部屋の中に連れ込み、ベッドで休ませる。西洋の野蛮から逃れるべく、ルーシーは東洋の叡智への中に溶け込むのだ。それは喧騒(ノイズ)から静寂(サイレント)に至る、一瞬の解脱である。しかし、一時期の安らぎをおぼえたのもつかの間・・・。ルーシーとイエローマンの噂を聞きつけたバロウズが怒り心頭、強度のへの字口で殴りこみに行く。ルーシーはあっさりと死に、そしてバロウズもあっさりとイエローマンに射殺される。ここで西洋の野蛮=父権が東洋の叡智に席を譲るのだ。しかし、イエローマン(東洋)が射殺に使った小銃(文明)とバロウズ(西洋)が殺人に使おうとした斧(非文明)の対比が相対的に転倒的だったことも指摘しておきたい。だから最終的には『散り行く花』は、一見図式的な映画だが、よく見ると図式的でない、と言える映画なのかもしれない。西洋の暴力に対しては東洋を暴力化せよ。という結論である。もっと、よく見てみよう。イエローマン(黄色人)は、最初から似非インテリ風の優秀な顔立ちで、あまり東洋的ではない。演じているのは白人(リチャード・バーセルメス)だし、この顔立ちはクリスチャン的ですらある。それもそのはず、グリフィスは1915年の<『国民の創生』事件(ウィキペディアを参照のこと)>で、国家や民族の差異を描くことに、必要以上に神経を尖らせていたのかもしれない。そしてグリフィスには黒人の乳母がいたことも明記しておきたい。






以下備忘録
クロス・カッティング(カット・バック)は一箇所のみ。ベッド上の父娘のいさかいのシーン。/人力車を使ったトラッキング・ショットは2箇所ある。あとはフィックス・ショット。/引きの画面がまだまだ多い。/主演のリリアン・ギッシュは当時26歳だが、少女役をこなしている。/サイレント映画のDVDに説明的な伴奏を入れるのはやめてほしい。なのでボリュームを0にして見ている。