岡崎乾二郎「ZERO THUMBNAIL」展をめぐるソフトな会話♪ その4





▼「ソフトな会話の時間でした。」
●「なんだか、脱線ばっかりでどうしようもないわね。」
▼「何言ってんだ。岡崎乾二郎の絵画を岡崎乾二郎らしい絵画として回収するのが一番みっともない議論なんだよ。「らしさ」なんてのはすごくいい加減な言い方でね、「あなたらしいわ」なんて言われるのはつまらないと思うだろ。さすがは岡崎さん、岡崎さん<らしさ>全開ですよね、なんて言われるとどつきたくなると思うよ。」
●「言葉を使って話しているからいちいち「人間らしいわ。すてきだわ。」なんて思わないものね。」
▼「二足歩行を見て、「さすが人間らしい歩き方をする」って犬や猫は感じてるかもしれないよ。ま、とにかく、「その人らしさ」を前提して「その人らしい作品」なんて言っても何も言ったことにはならないんだよ。」
●「いわば<その人らしさ>を強制することによって<その人らしくはないもの>の現前を瞬時に抑止させているのかもしれないね。そうやって<その人らしさ>が想像的に死守されてゆくパラダイムって蔓延している。」
▼「僕は村上隆の絵にさほど興味はないけど一時期「キャラをたてろ!」とか言ってたでしょ。僕はそのキャラが鬱陶しいんだよな。「君、いつものキャラと違うやん」とか「今日はあの子と会うから二枚目キャラに変えよう」とか、世俗がすでにポップアートになっているにもかかわらずね。」
●「ミッキーマウスのTシャツを着ている日は「あれ?今日は私みんなに人気者あつかいされたがっているのかも、恥ずかし〜、みたいな自意識ってあるんだけど、君はどうかな?」
▼「そう、要するにキャラの不在を前提して、キャラを要請してしまう自己循環がある。」
●「好き嫌いとか習慣とかもちろんあるけど、その偏差を測定できないままピストルズのTシャツ着ている日だけ、一日パンクになったりするってこと?」
▼「そうね、キャラにはキャラのイデアが内在していて、ミッキーマウス=かわいい=人気者、とかピストルズ=パンク=破壊的とか、資本主義に投下された一次資料が二次的、三次的になってゆくにつれて、イデアなり、メッセージなりの流通パイプが強化されてゆく。」

●「そういうのって別に問題はないし人に迷惑かけるわけでもないけど、ちょっと気まずいよね、例えば、「昨日のあのドラマ見た?そうそう、あれってさー、そう、よかったよねー、」とか、両者が自己成就できない時間を昨晩のテレビドラマのキャラに代表させた上で、自己を物象化させると同時に時間を想像的に解消する。」
▼「そして想像的に解消してるなってこっちが気付くからきまずい思いをする。これはどうしようもない。」
●「しかしTシャツ=プロパガンダっていう「方法論的着こなし」が年々抑圧されてきているような気がしないでもないな。」
▼「しかし、今回も脱線しまくりだね。」
●「キャラなんていい加減な概念よね。無駄にソフトな会話だったかしら?」
▼「作家がいて作品がある、作品があって作家がいるっていう、それだけでいいじゃない。」
●「しかしその自明のメカニズム自体を問題に付しているようなところが岡崎乾二郎にはあるんじゃないかな?」
▼「<らしさ>を否定(批判)する<らしさ>にさえ回収不可能な次元にもはや「作家/作品」という概念は有効ではないってことか?」