美術ノート 4





■ 岡崎乾二郎特集展示(後期) 東京都現代美術館




後期展示における見所はなんといっても「釉彩陶磁床」だろう。これは昨年、2009年に作家が個人住宅の設計依頼を受けて制作した文字通りの「床」である。同一寸法の2種類のものが展示されていたが、一方のものをざっと観察してみよう。これは直径25センチほどの144枚の正方形のタイルに釉薬を塗り、焼成−発色させたもので、それぞれのパーツの見た目はかなり似通っている模様なのだが、ひとつとして同じ柄がないのが特徴だ。



そしてブルーを基調として4色ほど採用されている、その明度はおさえ気味なのだが、岡崎乾二郎の絵画におけるタッチと同様、数々の波頭をざっくりと切って瞬間的にフリーズさせたようなエフェクテイヴな即物性が全体を覆っている。それらタイルの統一体は端的に「碁盤の目」であり、「碁盤の目」にはしっかりと木枠でフレーミングされている。


おそらく作家が独自でつくった作品タイトル(以前は小説のセンテンスから引用されていたものもあった)は、なんと1枚につき一文字あてられており、全体でひとつの文章を構成している。



面白いのは1枚1枚が「組み替え可能である」という点にある。つまり、タイルの1枚はジグソーパズルのワンピースに相当するものであり、それらが任意に組みかえられることによって、別の絵柄のパターンを再創出したり、壊したりできるのである(言うまでもなく、文字列に意味作用のつらなりを作ると、別のタイトルになる・・・ということはこの作品は整数的要素にあらかじめ乱数的要素が内属していると言える)。



144枚を72枚×2に分解して、小さな床の間を2つ作ることもできるだろう。もちろん1枚ものでもかまわない。例えば植木鉢を置いてみたり、それこそ額縁に無理矢理はめこんで壁にかけておいてもいいだろう。お風呂のタイルがはがれたら適当な大きさにカットして付け足してやればよいだけだ。



ただ、この「床」に欠点があるとすれば、それは「掃除機をあてられない」ということにある。釉薬が塗り込められた部分は、かなりのヴォリュームがあるので、ホコリもたまりやすい。仮にも掃除機を使えば、ヘッドがつっかえて仕方ないだろう。だからといってバケツにお湯を貼って雑巾で拭く、なんてのはヤボだ。ここは天気のいい日に、144枚を玄関先にキレイに並べて、ホースで水をジャーと出して、洗い流してやりたいところだ。(ここでタイルという物質に付随する「衛生」という観念、そして日本にタイル建築を導入した山田守を想起しておいてもいいだろう)。



組み替え可能な、まるでレゴブロックのモデュロールを芸術にまで昇華させたような作品、そう、この作品は「玩具」の特性でもあるだろう「遊戯性」を兼ね備えた「有用性」を目指したものであるといってよい。そして、なんなら、遠くアルチュール・ランボーがものした『イリュミナシオン』(飾画・・絵画ではなく有用性のある飾画)の残響をここに聴き取ってもかまわないだろう。


さてここで、作曲家のジョン・ケージ(1912年9月5日 - 1992年8月12日)がその生涯を賭けて伝導していた「芸術の有用性(ユーティリティ)」に触れておこう。端的にケージはつぎのようなことを大真面目に考えていた変人であった。


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・・・しかし、現代の音楽の状況についてはもう十分だろう。それはよく知られているのだから。もっと重要なのは、現代の茸(キノコ)が直面している問題が何なのかをはっきりさせることだ。まず手始めに、どの音がどの茸の生育を促すかを明らかにすることを提案する。茸は茸自身音を出すかどうか。ある種の茸の菌は、適当に小さな羽根をもつ昆虫がそれをピッチカートするのに使えるのかどうか。山鳥茸の軸は、小さな虫が這入ったとき管楽器になるかどうか。その胞子は、まったく色々な大きさと形をしていて、まったく数えきれないほど沢山だが、大地に落ちたとき、ガムラン音楽のような響きがしないかどうか。そして最後に、微小なものとして存在しているにちがいないと私が思っているこのすべての生き生きとしたものが、電子工学の助けによって増殖され拡大されて、劇場に持ち込まれ、私たちの楽しみをもっと興味深くすることができないかどうか。(『ジョン・ケージ著作選』音楽愛好家の野外採集の友より・・・それにしても筑摩文庫は紙質が悪くなってないか?)

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たとえば、ハサミが手の拡張手段であり、車が足の拡張手段であるように、ユーティリティとは身体拡張の原理そのものである。身体部位AとツールAがある目的に沿って対応することによってユーティリティが確保される。「使える」ということはユーティリティの度合いが高い、ということである。(しかし、注意しなければならないのは、ユーティリティへの過信はそれと比例して身体性能の退行を促すということだ(註)。



ケージにあっては、「現代の音楽」そのものが退行の要因(聴取能力の退化の要因)であった。そこで、茸が放つ音さえも、ユーティリティ(彼の場合は作曲)の手段であると捉え、彼の作る「サウンド」として使用可能なものと見なした。ここで付言しておくと、岡崎乾二郎の「床」、その変換可能性の試みは、サウンドとサイレンスの関係項を、その極微次元にまで及んで交換可能なものとして捉えたケージの作曲技法の「空間化」なのだと言えるかもしれない。



最後に、後期展示において、「床」以外は前期展示におけるものと同じだったのがやや残念だった。特に4コママンガの展示に対する期待が高まっていたのだが、一方で美術館の制度上、マンガ展示はおそらく不可能だろうとも推察していた。だが、それを可能にするのはハードコア・フォルマリスト、岡崎乾二郎の他にはいるまい、と確信してやまない。ちなみに私はひとつだけ読んだことがある。タイトルを『文学退屈マンガ』という。(2010−04-02)






(註)
例えばジャガイモの皮を剥く際、包丁を使うよりも、ピーラーを使う方がより速く、無駄無くできる。しかし、それを習慣づけてゆくと、包丁でジャガイモの皮を剥くというかつてできた「コト」ができなくなる、という退行を生んでしまう。それは、ジャガイモに向き合った「手」が絶えず、複数のツール(拡張手段)の選択可能性に晒されているということである。もちろんジャガイモを剥く主体は「何を使うか」を判断しなければならないのだが、おおむね「合理性」(より速く、より美しく)に基づいた判断がなされる。これが現代的な「コンビニエンス」の理念の類型である。