美術ノート 5



■ エドゥアール・マネ展  三菱一号館美術館




2010年4月6日より7月25日まで丸の内の三菱一号館美術館において「マネとモダン・パリ」というタイトルで展覧会が行われている。4月11日に足を延ばして、2週間ほど経ったが、以下、ざっくばらんに感想を述べておきたい。



まず、マネの何を感受すべきなのか?それは「黒」である。衣服や帽子、革靴などで強調されている格調高い幾多の黒色は、主に『死せる闘牛士』(1864頃)や『エミール・ゾラの肖像』(1868)、あと諸々の背景色において確認できる(もちろん有名な『オランピア』に描かれた黒人を入れておいてもいいだろう)のだが、マネの黒好みは、むしろ「カラス」の描写を通じて見直せばいいのかもしれない。その時点で「black(s)・・・複数の黒の表情」とでも言うべき「黒の多様性」を再確認できるだろう。思えば、エドガー・アラン・ポーの小説『大鴉』(1875)の翻訳者であったシャルル・ボードレールが、そのフランス語版の出版に際して、挿絵画をマネに依頼していたのも納得できるし、同じ年には『カラスの頭部と犬の習作』(現在はパリ国立図書館所蔵)を描いている。(ちなみにこの絵の右下に「漢字」に似ても似つかない不思議な柄が添えてある)。



さて、「黒」とは何か?言うまでもなく、それは絶対的な否定性であり、ポール・ヴァレリーが言うなれば「勝利としての黒」(ヴァレリーはマネの黒を賛美する「黒の勝利」というテクストを書いている)である。しかし、早まってはいけない。マネが描写する黒は純粋な「否定性」であるというよりも、「肯定」に対する<無関心性>としての「否定」であり、「純粋な否定」の否定であり、「否定」の間接的徹底ですらある、ということだ。



主に1860年代に多く描かれた活劇のワンシーンを切り取ったような絵画、例えば『サラマンカの学生たち』(1860)や『死せる闘牛士』のファーストヴァージョン(1863〜1864)。これらは活劇特有の「活気」や「熱気」が伝わることなく、どこかひんやりとした距離の視確認において見る他ないのだ。マネの絵画に顕著な「無関心性」とは関係性の瞬間的凍結であり、その凍結の維持である。それは決して見るものを暖かく包み込んでくれるような(例えばルノワールの描く裸婦のような)「温度」がない。上記二点に描写されている人物群は、絵の中で自由自在に動き回っているように見えるのだが、鑑賞者がそれを見る「意識」をフリーズさせるような「無関心性/無関係性」において、つまりは「絶対的に埋められない距離」において、描かれているものと思われる。



(ちなみに、ジャン・リュック・ゴダールは『映画史』3Aのチャプターにおいて、「マネとともに近代絵画が始まった(・・・)つまりシネマトグラフが」と繰り返し呟いているが、ゴダールの真意は「活劇の熱性=映画らしさ」ではなく、観客(ないし観客の実生活)との絶対的な<距離=無関係性>において成立している「動画=活動写真」がもたらす冷徹な距離の確認においてであろう。)



実際、マネは10年間、サロン(官展)に落選しつづける。一方でサロン界が主催するパーティの招待も断りつづける。この異様な無関心性、無関係性に気付いていたのだろう詩人/美術批評家であるボードレールが、マネにエールを送っていたことがジョルジュ・バタイユのテクストから確認される。引いておこう。



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ボードレールはマネに書いた(1865年)、「人類などくそ喰らえだ・・・」(しかも彼はこの友人の共犯を言外に意味してさえいた、なぜなら彼はつぎのように書き加えているからだ、「おわかりでしょうが、親愛なるマネよ、ぼくは多くのことに関して君にこっそりと書いているのです・・・」。同じころ、彼は母親に言っている、「私は全人類を私に敵対させたいのです、私はそこに私をすべてから慰めてくれるであろうような喜びを見るのです」)。



しかし、ボードレールの意に反して、マネは詩人が彼に差し出したものを拒絶した。彼は人類を軽蔑することはできなかった。彼にはそれだけの自惚れはなかったのだ。彼はためらった、彼は他人たちから超然とすることもできなければ、他人たちと折り合うこともできなかったのである。彼はボードレールのように、自分のうちにあの得体の知れぬ充溢した強さ、悪運であり、同時にアイロニーであり、確実に悲痛なものであり、彼に自己を主張することを許したものをもっていない。彼はどっちつかずでいる。マネはボードレールに比べると、とるに足りない人間に見える・・・とはいえ、いかに彼が賛同をえようと心を労したにせよ、彼は、何ひとつとして真に偉大なものに敬意を払わなかった同時代の群衆に還元しうるものではなかった。そして、彼の慎ましさは彼をボードレールよりも遠くにまで連れていった。(ジョルジュ・バタイユ全集 「沈黙の絵画ーマネ論」 p,29 宮川淳訳)



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「モダン・パリ」などという商売文句に惹かれて、丸の内まで足を運ぶ人も多いのだろう、たしかに「都市の近代化と並行する美術の近代化」なるパラレリズムを扱った企画コンセプトはなかなか興味深くもあった。例えば(レオス・カラックスの長編で知られる)「ポン・ヌフ橋」やパリ万博における建造物の設計図なども展示してあり、当時の技術者の「器用仕事」(これこそがアルケー-テクネーとしてのアーキテクチュアではないか)の細やかさ/正確さには感嘆せずにはいられなかった。



今なおもって消費の記号でしかない「モダン・パリ」ではあるが、しかし、上述したバタイユからの引用に見られるように、マネの「否定性」、あくまでも慎ましやかな「同時代的否定性」(モダンなルノワール、コロー、モネなどを冷ややかに攻撃する真にモダンなマネ)こそがその後の「アヴァンギャルド」(前衛)を用意したのだ、ということを最後に強調しておきたい。(2010-04-18)