美術ノート 6


■ 古谷利裕の新作  吉祥寺100年




「もぐら叩き」というゲームがあった。10数個の穴からモグラが出たり入ったりする。出現中のモグラを狙って、でかいトンカチのようなもので叩くのに成功すると点数が稼げる、といういたって単純なゲームだ。モグラは複数の穴からアトランダム(それ自体制御されたものだが)に出現するので、プレイヤーは動態視力に伴う反射神経の良し悪しが問われる。



さて、1ヶ月ほど前になるが、古谷利裕の新作を見に行った。その日はちょうど井の頭公園で、新作のミーティングを兼ねた御花見の催しがあり、それはそれで楽しかったが、ころ合いを見て中座し、吉祥寺の一角まで足を延ばすこととなった。帰宅して、すぐに感想を記しておこうと思ったが、4月11日に心霊研究会の第3回目を予定していたので、そのレジュメ作成や、段取りでドタバタしているうちに遅れてしまった。




4、5点あったなかでサイズが一番おおきな絵、キャンバスにクレヨンで描かれた『plants』がことのほか面白かった。それを見ていた時間があまりにも「モグラ叩き的な時間」だったのだ。「やってくる像」と「逃げ去る像」が同時多発的だった、と言ってもよい。感想を述べておきたい。




ある種の抽象絵画においては、「見る」という動作が独特の感触を持つに至る場合がある。『plants』は「見る」ことにおいて<目まぐるしさ>を要請する絵画作品である。その急性視覚の性質は喩えていうなら「人間が食べる」というのっぺりした動作に対して、スズメなどの野生の小鳥が「餌をついばむ(pick upする)」という動作に近いと思われる。「見る」という安定的な動作ではなく、まんべんなく「チェックする」という感覚に近く、その<めまぐるしさ・・・非−視覚的着地性>は同時に見ることの「開放感」をもたらすことになる。(○○を見よ、という指示作用の強制を無化してさえいる)




「まんべんなくチェックする」? なぜ絵画を見ることにおいて、それを「見る」のではなく、「見る」を果てしなく分解するような所作、「見る」において、果てしなくその持続(眼差すこと)を寸断するような所作が、タブローを前にして執り行われるのだろうか。



その秘密は「線」にある。もちろん、「線」が少しでも幅をもったところで、それは「面」と化してしまうのだが、『plants』における「線」は、ギリギリのところで、それ自体が線の膨張をくい止めているような「線」である(卑近な例だが、マッチ棒よりも爪楊枝の方が「線的」ではあるが、爪楊枝よりもシャープペンシルの芯の方がより「線的」である、という意味、ユークリッド幾何学的な意味での線)。




それではその「線たち」が、なぜ「見る」動作以上に「チェックする」という動作を推進してやまないのか。おそらくは、「線たち」という実体は、それが複数個あつまったときに、「線たち」以上の何か(形、模様など)に生成変化してしまうことに、その理由がある。




私的には『plants』の「線たち」を見ていて、右下あたりに「巨人ゴーレム」の後ろ姿が出現した。それは、わかりやすく言えば、染みの三点を見ると人の顔(両目と口)に見えるという意味で、複数の線が「巨人ゴーレム」に見えてしまった、といういたって単純な視覚現象ことだ。それを、たんに「筋肉質の男の裸体の後ろ姿」と言ってもいいのだが、即座にポッと頭に浮かんだのが「巨人ゴーレム」だった(別に唯名論的な立場で言っているのではない)。「巨人ゴーレム」はまぎれもなく具象であるが、抽象と具象という二元論に着地させないという方法論を作者がどこまで意識しているのかはわからない。「抽象」という概念が具体的な事物(具体物)を上位化する(リンゴやキウイを「フルーツ」という概念として抽象したり、一方でリンゴやトマトを「赤色の食べ物」と抽象化したりする)ことなのだとすれば『plants』にける抽象平面から「巨人ゴーレム」を見てしまうことをも含めて「絵画を見る」という経験が保証されることになるのだろう。(「ゲシュタルト」という概念は何も心理学だけにあてはまるわけではない。)




もう少しつっこんでヒントをつかんでおこう。むろん、この私的に過ぎない「巨人ゴーレム的経験」、他者のそれとは交換不可能な、誰にも了解されえないだろう「経験」は、カントの言う「物自体」(主観の外)以前にある「物」(主観の中)に属する経験に留まっていると言ってよい。この意味で、絵画は「物についての物」を描く地平において、今なおもって絵画たりうる。




しかし、ただちに付け加えておくが、それ(物のサーキュレーションの内属性)を条件法的に前提すると、「物自体」を即座に捨象してしまうことになる。メタフォリカルに言えば、「画家はモグラ叩きにおけるモグラを描いてはいるが、モグラの出現を成立させる<穴・・・地下茎のような穴>そのものについては描いていない」ということになる。(2010-4-28)