絵画からの気づき

■絵画からの気づき





しばらく、絵やイラストを描きまくっていて、ここで気づいたことをいくつか。




おおげさなことではない。言葉で言う、書く、伝えることに飽きたというわけでもないし、それに限界を感じた、というわけでもない。むしろ、(暫定的に)何ら言いたいこともなく、書きたいこともないので、絵を描いた、ということに近い。ペンを持つ。これから字を書くか、線を描くかは、用意された白紙の前では実のところ、自由な判断にゆだねられている。これから何が起こるのか。何が出現するのか。それはわからない。だが、何も起こらない、ということだけでも、ひとつの結果である。白紙のままで満たされるのは、白紙の不安に脅かされるのとはちがう。書き込め、とフェイスブックは、ツイッターは、はてなダイアリーは言う。何も書かない自由なんて、まるでない、と言わんばかりに。書き込むべき余白を作っているのは誰だ?誰でもない非人称の世界だ、ということだけを隠して。




少しまえ映画に出てもらった20代そこそこの女性が、「わたしははやく薄紫の世界に到達したいんです。」と言ったことがある。具体的に結婚して、どうのこうの、年に一回は海外旅行に行き、どうのこうの、ということではない。彼女は「薄紫の世界に到達したい」だけであり、いかなる具体的な出来事が起ころうが、それらの個々のイヴェンタリーは、薄紫色の世界に回収されてしまうのである。




比喩なのだろうが、比喩とは言い切れない。残余の印象が残るし、象徴とも言いきれない。来るべき将来を予見して「それは、きっと薄紫色である」と、とりあえずの仮の規定をしているに過ぎない。これは言葉で伝えるということを最初からあきらめているというよりも、言葉を信用していないというよりも、すべての細かい思惟-記述をすっとばして「薄紫色」というたったひとつの語彙に託して言っているにすぎない。




ところが、実際に彼女が薄紫の絵の具を使って、具象であれ、抽象であれ、絵にすることによってはじめて、出現するだろう「薄紫色の世界の正確さ」を追求しようとすれば、その世界は、きっとつまらないものになるだろう、と思う。正確ではないからこそ、薄紫と彼女は言っているのであり、正確であれば、最初から言葉で言っているはずだ。絵画にもならない、言葉にもならない。そういう次元としての薄紫色である。




語彙がもたらすイメージの膨らみと、イメージが持たざるをえない語彙による限定。イメージから言葉へ、言葉からイメージへ、という循環作用は脳を複雑にしてきたのか。または複雑になりすぎた脳をもさらなる単純化へと向かわせるのか。出口もなく、入り口もないそれらの渦は、どんどん地下へと、潜ってゆくだろう。遠回りこそが最大の近道なのか。