■ 建築ノート 1
数年前、柄谷行人の『定本 柄谷行人集2 隠喩としての建築』の「英語版序文」と「後記」を読みたいばかりに、たしか新宿のJUNK堂で購入した。当時、実際に目を通したはずだが、最近、再読してみて新鮮な発見があった。それは柄谷行人が、現在の建築の可能性を「バウハウス」に見いだしているという「具体性」である。「大文字の建築」の終焉から「建築術」への移行。このパラダイムシフトが計られる大きな参照枠として、「バウハウス」の実践が、称揚されている。「隠喩としての建築」では、柄谷行人は哲学を建築のメタファーとして捉えていたのであり、現実の建築を問題にしているわけではなかった。その認識は、プラトン以来続く西洋の形而上学(哲学)の歴史をある種の構築的態度(建築)としてメタフォリカルに捉えることに主眼が置かれていたのだといってよい。彼は「隠喩としての建築」と「現実の建築」を明確に分けて考えていた。
いずれにしても、以上は「隠喩としての建築」の問題であって、建築プロパーの問題ではなかった。私は事実上、建築界で何が生じているのか知らなかった。多少具体的に今日の建築の問題を考えるようになったのは、1991年にANYの会議に参加するようになってからである。そのとき、私は建築におけるモダニストが、プラトン以来の大文字の「建築家」とかなり異なることに気づき始めた。たとえば、ヴァルター・グロピウスがバウハウスの創立において提唱したのは、建築をして諸芸術を統合しようとする考えである。しかし、これは哲学者=王あるいはすべてをデザインする前衛党のような考えと似て非なるものである。というよりも、その逆である。「隠喩としての建築」を称えるプラトン以来の哲学者が、手仕事に従事する実際の建築家を軽蔑してきたのに対して、バウハウスはまさに手仕事に優位を与えるものだったからである。(p,234)
大文字の建築はある種の商業主義に支えられる他ないし、建築家と実際に建築を建てる労働者は分離せざるをえない。しかし、バウハウスが提唱したのは建築家の手仕事に優位を与える、いわば建築から建築術を奪回することに他ならなかった。
事実、バウハウスは手仕事的・職人的なものの回復であった。グロピウスは、「そこで、工芸家と芸術家との間に高慢な壁を築いて階級を区別しようとする越権行為を排し、工芸家の新しいギルドを結成しようではないか!」といっている(「バウハウス・マニフェスト」1919年)。しかし、「新しい工芸家のギルド」が、産業資本主義の現実の上でものを考えていたことを見逃してはならない。彼らの前には、商業資本主義と芸術至上主義への両極分解があった。あるいは、工業的生産物か手仕事的芸術か、という対立があった。(p,234)
柄谷行人は、つづけてこれらの両極分解をすすめる社会的条件・・・<産業資本主義>そのものを廃棄するためにこそバウハウスの実践意義があり、それを「モダニストの政治的存在論」とでもいうべき指摘に繋げて、次のように結論づけている。
その意味で、モダニズムとは資本制経済がもたらした技術や生産物を受入れると同時に、資本制経済に対抗するという両義的な運動であったといってよい。モダニストが多かれ少なかれ社会主義者であったということは、この意味で、必然的である。問題は、それがいかなる社会主義だったのかということである。(p, 235 )
端的に言えば「バウハウスの運動」はいわば「イデアー理念」を抱えた「建築史/芸術史からの切断」であったといってよい。これは、イギリスの初期のマルクス主義者である工芸家のウィリアム・モリスの影響下にあった「ドイツ工作連盟」こそがバウハウスの前進だったことを思い起こせば了解できるだろう。柄谷行人は次の言葉で「後記」をしめくくっている。
・・・そこで、若い建築家たちがヴァーチャル建築にひきつけられることは疑いがない。しかし、それがかつてのモダニズムのようなインパクトを与えないのはなぜか。そこに、かつてのモダニストがもっていた倫理性と社会変革のヴィジョンが致命的に欠けているからである。(p.240)
このテキストが書かれたのは2003年であるが、「コーヒーテーブルブックに堕した建築の言説」(磯崎新)が流通しはじめたあたりに相応しているものと思われる。気の抜けた炭酸のような「モダニズム」がテーブルに用意されただけなのだろう、そんな「ぬるい光景」に微睡むことなく柄谷行人の指摘は今なおもって鋭利である。(2010-05-16)