『まじめが肝心』はオスカー・ワイルドの風習喜劇、読んだことないけど その5








石を投げれば、村上春樹ファンに当たる。というほどでもないだろうが、今の日本には村上春樹ファンが数多くいる、ということくらいわたしも知っている。どういう理由で彼の小説が広く読まれ、人気があるのか?そういうことにもさして関心が持てず、わりと身近にいる彼のファンについても、ファナティシズムをこちらに押し付けるようなことが皆無なので、かえって反発を覚えることもない。



大学生の頃、スージー&ザ・バンシーズに熱狂していた同じサークルの部員の女性に『ノルウェイの森』をさりげなく薦められ、さりげなく手渡しされたことを覚えている。ノルウェジアン・ウッドは『ラバーソウル』(ゴムの魂)に収録されている中期ビートルズの曲だということくらいは小学6年生のころから知っていた(姉の影響)ので、「ああ、この曲にはさして思い入れははないな」という程度の感慨しか持てず、数日間借りたその本も、ほんの2,3ページ読んで、返してしまった。



ところが、その後、『ノルウェイの森』を最後まで読むことになる。京都の実家に帰ったときに、なんと母親の書棚にこっそりとその本が立てかけてあり、就寝前に枕元に置いていると、ついに読みきってしまったのだ。今、思い出したが、京都の洛北にある病院(サナトリウムだったかな、正確には思い出せない)が舞台になっているシークエンスがあり、それで、ちょっと面白がって目を通してしまったのだろう。



ウィキペディアによると村上春樹の生誕地は京都市伏見区になっていて、これはわたしの実家があるところであり、(11歳までは上賀茂で過ごした)、どのあたりなんだろう、という興味もないわけではないが、そんなことよりも重要なのは、『日本近代文学の起源』の著者である柄谷行人(この書物はそのうち岩波文庫としてエントリーされるだろう)が、村上春樹に関するかなり鋭くもきわどいテキストを書いていることである。(『終焉をめぐって』所収)。




さきほど言ったように、村上春樹ファンは数多くいる。なかでも、4年ほど前になるが、春樹ファンのhさんに、この『終焉をめぐって』をすすめにすすめて、というよりも、所有本を貸したことがある。彼女の反応がいかなるものだったのかは忘れてしまったし、いちいち、反応を聞いていなかったのかもしれない。というよりも、そのテキストは彼女にとって「暖簾に腕押し」だったのかもしれない。





「20世紀の最大の悲劇は言うまでもなくナチス・ドイツによるホローコストである。ヒトラーがドイツの首相に任命された(国家社会主義ドイツ労働党が政権を取るようになった)のは、1933年のことだが、村上春樹は、1933年はピンボールが発明された年だ、ということを強調する。」・・・柄谷行人のテキストで覚えていえるのは、まさにこの部分だが、おそらく、村上春樹はこの文面を執拗かつ慎重に内面化した上でノーベル文学賞を拒否しているのだろう、というのが私的な憶測だ。・・・あれだけ真摯であり、かつまじめ(?)な大江健三郎のあとでは、彼がその賞をとってしまっては日本文学の価値は本末転倒である。と、即座に叩かれるだろうことを知ってのことだろう、か。




好き勝手なことを書いているが、わたしは小説ファンでもないし、文学ファンでもない。(だからといって、好きな、というよりもいい小説だったな、と思える小説がないわけではない)。村上春樹ファンは、彼の小説を勝手に楽しめばよい。