建築ノート 5




■ 建築ノート 5




「建築ノート 4」において、私は壁が壁であることを注視させない<壁そのもの−物質>について触れ、その物質性こそが<建築への無関心性>をおびきよせるものだといった。




ところで、ベンヤミンの言う<建築に向けられる散漫な知覚体制>とは、この<無関心性>を「連続性」として確認することである。それは<散漫さ>を「建築知覚における時間的継起」(いわば、出来事として見ること)を疎外するものとして認識することでもある。裏返して言うと<建築に向けられる集中的な知覚体制>とは、個々のディティールを「時間的継起」において確認すること、つまり、その都度、建築の要素や要素間を<出来事性において>見ることに他ならない。



言うまでもなく、建築は「物質の集合」であり、それらの「構造」である。そして、われわれが手放すことのできない「家」とは「住む」という行為に連続している。しかし、そのような世俗的でありふれた「家」を「建築物」として、いちいち承認したりはしないことに注意すべきである。先にも触れたように、「建築」はむしろ<構造>を隠蔽する<表層>にとってかわられている。ここで、歴史的に見て、建築物をそれとして承認させたのは<国家=王>であったことを想起しておくべきである。「プラトン−柄谷」が指摘した<隠喩としての建築家>が加担したといってよい。



古代エジプトにおいてクフ王のピラミッド建造に従事する奴隷から、ルイ王朝が必要としたヴェルサイユ宮殿ヒトラーが必要とするシュペーアの建築(ベルリンオリンピック競技場)、ムッソリーニが必要とするマラパルテの建築(ヴィラ・マラパルテ)にまで連綿と続き、それらの建築が、国家を誇示、あるいは国家を同一的に承認させるためのシンボリックな機能を果たすために要請された。何おいてか?言うまでもなく、「建築」をそれとして超越的に(懐疑のはさむ余地のないように)保証するためである。



一方のバナキュラーな(世俗的な)建築においては、シンボリックな機能は必要ないし、また、求めるべきではない。しかし、にもかかわらず、(多かれ少なかれ)現代において人は建築に関心を持ち始めている。この「開眼→関心」は、とくに「建築そのものの意味性」を特に変えることはない。せいぜいのところ、建築への趣味や志向が多様になるだけである。(例えば、クリスマスシーズンになると、玄関に電飾をつけている家があるが、これはどれだけ建築が<表層的なものとして>世俗に受入れられているかの証左である。)さらに、注意しなければならないのは、「建築への無関心性は、建築の表層(「コーヒーテーブルブック」に堕した建築言説や建築写真)に対するインタレスト(関心)と表裏一体的である。」という点である。それは「建築−構造」に対する「メタ構造」を形成しているといってもよい。例えば「玄関」を「ファサード」と言い換えたところで、その「構造自体」はなんら変わりない、という意味で世俗が受入れる建築とは、表層的にとどまざるを得ないのだ。しかし、これは「建築の堕落」というよりも「世俗の(さらなる)堕落」であり、資本主義が要請する「盲目性」であり、その連鎖である。



ここでひとつの「結論−命題(テーゼ)」を導いておく。それは<「建築への無関心性」とは「建築とは言語の限界である」という「認識」と関わっている>というテーゼである。建築とは<言語システムの限界>そのものであり、この認識を通じて、かろうじて建築の「建築性」が露呈する次元がある。<表層>とは同時に<言語システムの限界>であり、ひとびとは、その<限界>において、はじめて「建築への(真の)関心」を持ち始める。建築は、<言語>との関係、<言語において表現されたモノ>との関係性において捉えるべきである。



ところで、柄谷行人は、詩人ヴァレリーが書いた『芸術についての考察』を引用して、<「人間がつくるもの」の特性は必ず「自然がつくるもの」を通して明らかにすることができる>、このことを指摘したあと、次のように追記している。


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人間によって作られたものの特徴は、その形態の構造が素材の構造より単純だという点にあると、ヴァレリーはいう。たとえば、ある文学作品の「構造」が把握されるとき、それはつねにテクストより単純である。いかなる「構造」も、なんらかの意図、目的なしに考えられない。あるテクストの「隠された構造」をみるとき、すでに隠された意味、あるいは、制作者が想定されている。ところが、テクストは人間によって作られたものでありながら、それよりも複雑で過剰な「構造」をもつ。なぜなら、それは「自然言語」という素材によっているからである。制作者がどう統御しようと、言語そのものが意味をもってしまうことを避けられない。その意味で、テクストは「自然がつくったもの」なのである。(『隠喩としての建築』<建築と詩> p,49)

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柄谷行人のこの指摘は「人をがっかりさせること」、つまり「壁がついに壁でしかなかった」という「単純な事実性」を見事に捉えている。しかし、ここで見逃してはならないのは、「壁−素材−構造」と「壁−自然言語−複雑にして過剰な構造」の二重体において「壁はついに壁でしかなかった」という認識へと至る<怪奇さ>(唯物論的怪奇さ)が「ある」ということである。この<怪奇さ>には根拠がないが、むしろこの根拠のなさ(無根拠性)こそが、壁を壁たらしめているのであり、この省察過程を無視するところに「壁」が「真の壁」になる契機はないのである。




われわれにとって「壁が壁であることに関心を向け、興奮する」ことは難しいことだ。だが、「この世界が成立している複雑怪奇さ」を見極めようとすると、「壁が壁であることに刺激され、興奮する」ことも可能なのである。(2010−05−22)