映画ノート 3




■ アンリ・ヴェルヌイユ 『ダンケルク




「1940年5月10日、第二次大戦下にあったフランス軍とイギリス軍の同盟軍(37万人)が敵国のドイツ軍に北フランスの港町、ダンケルクまで追いつめられた。時の英首相、ウィンストン・チャーチルは海軍、空軍の総力を結集して、「奇跡の救出」と呼ばれる作戦を敢行した。」(パッケージによる)

戦争空間においては「戦争空間」が「人間空間」に先行する。人間は戦争の下位概念にあり、行為のテロス(目的)のすべては、まずは戦争遂行という「大義」に包摂される。なにげない言葉や仕草、深い溜め息や、浅い欠伸、酒の一杯、煙草の一服までも現在時の戦争のために「ある」のだ。この映画において注目すべきは、それらの行為が「日常の延長上にあるにもかかわらず、日常性を剥奪されている」という認識において、フレーミングされているということである。戦地キャンプにおける森羅万象は、日常的でありながらも非日常的である。息を吸い、吐く。その明白な行為さえも、どこか複雑怪奇な、決して「いま、ここの」自己に明瞭に還元されうるような行為ではない。・・・不透明な、色調を欠いた灰色のルーティン(単調行為)は、決してその行為をきわだたせるような撮影のされかたをしてはいけない。



この映画のクルーはその「戦場の原則」を完全遂行したのだと言ってよい。兵士たちは点景化され、<顔−名前>をもぎとられたようなロングショット、ミディアムショットが支配的になる。(厳密な意味でのクロース・アップはひとつとしてない・・・固有人による固有の行為を特化的に撮影しては、戦地キャンプのリアリティからとおざかるのだ、と言わんばかりに。)・・・そして、いたるところで黒煙がたちこめ、炎がとりまく。・・・そういった包囲的な「無頭人的空間」(バタイユ)において、兵士はかろうじて<ある>のだ。まるで針金の一本が砂漠に忽然とつきささっているかのように・・・どれだけ血気盛んになろうが、ジャコメッティの彫刻のごとく、針金的な、極端に切り詰められた「DER SEIN」でしかない、とでも言わんばかりに・・・



それでは、戦争状態において際立った行為とは何か、それは言わずもがな、「迫りくる死」に直面した時に、突発的に海に飛び込むことであり、予告なしの銃撃戦を受入れることであり、戦場での仲間の死に際して、ありあわせの技術でインスタントな墓をつくってやることである。



アンリ・ヴェルヌイユ監督、というか、この映画のプロジェクト自体は低空飛行の爆撃機、炎と黒煙、そして砂浜の海岸地帯附近まで独軍に追いつめられて、なお組織化されるキャラバン(野営地)を、まず独特の戦争のトポス(場所)として徹底的に捉えたかったのだと思う。(カトリーヌ・スパークをめぐるエピソードはオマケのようにしか見えない・・・そして、低空飛行にかんしてはロベール・アンリコ監督の『冒険者たち』を思い出す・・・それにしても、あれは泣かせる映画音楽だった・・・)

主人公にジャン=ポール・ベルモンドを迎える『ダンケルク』(原題は『WEEK-END ZUYDCOOTE』)が撮られた翌年の1965年、ゴダールの『気狂いピエロ』において彼は無精髭の逃亡者、フェルディナンを演じることになる。明るい南仏の海岸線、彼もまた追いつめられた兵士のように理性のタガを狂わせていったのだった。アンナ・カリーナが唄う「マリ・ド・シャンス」(私の運命線)とともに。(2010−10−09)






■  那須博之  『ビー・バップ・ハイスクール



『デビル・マン』が酷評だった那須博之監督の80年代のヤンキー文化の金字塔でもあった『ビー・バップ』の第一弾をなぜか、2010年の初秋に見なおす。以下パッケージのテキスト。

『ケンカにゃ強いがオンナにゃ弱い!俺たち噂のヒロシとトオル。今日子のためならいつでも青春ステるぜ!!つ〜わけで、ズッコーンと登場だぜ「ビー・バップ・ハイスクール」。きうちかずひろの原作の250万部突破したベストセラーの映画化だから、ハンパじゃない。それにナ、ナントあの中山美穂ちゃんが意外にも!?優等生のマドンナ役で映画初出演しちゃうンだからタマラナイ。ヒロシとトオルには、北は北海道から、南は沖縄までのツッパリ野郎から選ばれた「ラッキー・ツッパリ・ボーイ」の2人が熱演。話題満載!パワー全開!これをみなけりゃ始まらないぜ!!』


ヤンキー文化の失墜なのかどうか。どういうわけか昨今「ヤンキー的にガラが悪い」ということがいよいよ希薄になってきた。路上でつばを吐く、煙草をポイ捨てする、無目的にたむろする。路上に寝そべってダベる。これらのイージーアクションがやりにくくなった。自己管理的なディシプリン。かつては都市の潜勢力だっただろう「街路の力」を数数の「やってはいけない」が、抑圧している。(それにしても郊外の真夏のコンビニの前でスタティックにたむろする若者に、なんの潜勢力があるのだろうか?・・・「禁止することを禁止せよ」・・・68年パリの五月革命当時のスローガン)



社会の女性化、それは端的に「文化的洗練」というよりも、「暴力の抑圧」のイデオロギーの効果であろう。そして(アナキスト/アクティヴィストの矢部史郎が言うには)「男性的なもの(いいかえるなら暴力的なもの)の抑圧」を担っているのは女性である。一方で、男性のエステティカルな(審美的な)女性化が奨励され、それを社会の女性化全体が裏打ちする。さて、「社会の女性化」とは、何によってその正当性が保証されているのか?おそらくは、だれ一人として理解していないだろう。・・・当の女たちは、うそぶくばかりだろう。「そんなこと知らないわよ。社会が勝手にそうなってんのよ。」・・・真の女は一切合切のイデオロギーからは無縁なところにいる。



(いきなりこんなこというのもなんだが・・・これを書いている今、ちょっと酔っぱらっている)、虚飾、虚栄、裏切り、逃走、虚言、さらなる逃走、どこまでも逃げろ、こそが「近代女」の仕事ではなかったか。真の女は「愛」を嫌う。「愛」というイデオロギーをことさらに嫌う。「愛のコミュニケーション」をもっと嫌う。その腐った語感を。小市民的感性を。(さらにいきなり言うが、真の女は、「キリスト教の限界」を見抜いているのかもしれない。そして、真の女は「(キリストに嫉妬した)ニーチェの味方」であるのかもしれない。・・・抽象化していうと「愛の存在論」よりも「パッションの生成論」を真の女は好む、ということだ)。


ところで、真の女の行動原理は、「真の男」を生産することにある。「真の男」こそが歴史の基幹であり、ゆえに『歴史は女で作られる』(マックス・オフュルス監督)。一方で「真の男」は「真の女」を求める。8の字ダンスが開始される。・・・ステップ・トゥ・ステップ・・・ステーション・トゥ・ステーション・・・。この次元において「性の多数多様生成体・・・ポリセクシュアル」の革命的原理が作動する。男であることをやめること、女であることをやめること、超人になること。(なんかドゥルーズガタリみたいだな)



『ビー・バップ』とは関係ない話が続く。

「そこのお前は、君は、彼らは、彼女は、オレは、あいつはSなのか、Mなのか?どっちだ・・・」・・・「サド・マゾ概念はポリセクシュアル概念を隠蔽する・・・というよりも、ザッヘル・マゾッホの『ヴィーナス・イン・ファーズ』くらい読んでから聞いてほしいよなあ・・そーゆーことは。」(とも言いたくなる・・・・ついでに、SかMかの二元論をただちにやめること・・●●派ですか?▼▼派ですか?という問いを<その場で>蹴散らすこと・・・)。

恋愛は革命的である。このテーゼを心の片隅で否定するフリをしながらも、恋愛にこっそりと革命を導入すること。『ゴダール映画史』(ジャン=リュック・ゴダール)や、『資本論』(マルクス)や『アンチ・オイディプス』(ドゥルーズガタリ)や『ノヴァ急報』(ウィリアム・バロウズ)が革命的である以上に恋愛はそれ自体において革命的なのだ。


サルトルをして、「彼は革命的であった」というなら、それはサルトルボーヴォワールの恋愛が革命的であったということも含意しているのであり、アーレントハイデガーからレノン&ヨーコ、柄谷行人と柄谷真佐子、中上健次と中上かすみ、ヨハン・セバスチャン・バッハ&アンナ・マグナレーナ・バッハ・・・ゴダール&カリーナ、ヴィアゼムスキー、ミエヴィル・・・近所の坊やと近所ではない少女・・・はちみつとレモンとクリームチーズ・・・メス犬に似たヤンキー男と、オスヤギに似たヤンキー女・・・『少年』(大島渚の傑作ロードムーヴィー)に出てくる少年とニセの母親・・もまた、然りである。


この映画は(例えば『パッチギ!』とは、また違った意味で)「ガラが悪い」。それゆえに「(PTA抑圧的に)もう、このような映画は日本では撮られないのだろうな・・・」と、前半30分で思った。(そう、この映画には『パッチギ!』のような良識的世間にやすやすと受容されるような「政治的なコード=ポリティカル・コレクトネス」がない)。・・・好き放題やっている。水平性と垂直性の苛烈な運動交換。前半のこまめな散弾銃的ギャグ。終盤のリアルレインの降り注ぐ子どもたちの戦場。爽快な映画だった。この映画が、あたかも「女」であるかのように、生き延びればいい、そう思った。(2010−10−02)





■ フランシス・フォード・コッポラ  『地獄の黙示録


コッポラはスタイリスト(審美主義者)である。感度の良いフィルムとそれに応じた高度な撮影技術、そして(当時)最先端のレコーディング技術が、その審美性をいやがうえに高めている。画面にはヘリコプターが映っている。だが、画面が知らせるのは「ヘリコプターを映す以上のことをやってのけている。」ということだ。「いいか・・・ヘリコプターというものはたんに飛んでいるんじゃない。遠くから近くに接近してくるものなんだ、あるいはその逆もありうるのだが・・・いずれにせよ、音響の遠近法を持ち込むべきであって・・・」という「現実の反映的サウンド・エフェクト」を律儀に遂行している。現実の反映は劇場内に律儀に設置された「サラウンド・スピーカー」によってさらに反映されるだろう。


上述した『ダンケルク』が昼の戦争を描いているとすると、『地獄』は夜の戦争を描いている、といってもよい。『ダンケルク』が昼の戦争を「黒煙の支配」によってあらわしているとすると、『地獄』は夜の戦争を「光の征服」によってあらわしている、といってもよい。だたし、初期のフリッツ・ラングの映画に見受けられるようなドイツ表現主義的な「光と影」の弁証法によってではなく、画家のカラヴァッジオレンブラントの絵のような「闇と閃光」の弁証法によって。なおかつ、その弁証法自体がすぐさま「炎」によって焼き尽くされる、その反理性的な「戦争の弁証法」によって。


ヴェンダースがコッポラの指示を受けて撮った『ハメット』と同様に、ストーリーは、びっくりするほどつまらない。(原作のコンラッドの『闇の奥』はそこそこ面白かった)


だが、マーティン・シーンのまばたきひとつしない青い瞳が最後までよかった。(2010−10−05)