映画ノート 5






 ■ ジャン=リュック・ゴダール  『ゴダール・ソシアリスム』




「いまだ光を放たざる、いとあまたの曙光あり」
という
インドの詩人、リグ・ヴェーダのいった言葉を
ニーチェは気に入っていて、
じぶんの住まいの門戸にその文句を彫りつけていたという。

「あまた」というのは漢字で書くと「数多」で、
海の果てや山のむこう、
だだっぴろい広い道の先っぽから頭を出すあかつきの太陽が、
今日も、そしてこれからもずっとある、
ということを言っている。
だいたいのところ明日のことは分かっている、
ということなのだろうか
世の中はそうそう激変しない。
今日は食えるが明日は食えない、
ということはあまりない。
変わるのは、体調の微細なこと、
覚えていることや忘れていること、
昨日考えていたことも朝になるとすっかり忘れている、
そのことさえも忘れている、そんなこと。



先取りされた時間。あらかじめ生きられる明日。いま、ここの空間が明日もあり、明日から眺められた今日の空間が、つづいているだけだ。だから、過去は過ぎ去りもしない。過ぎ去りもしない過去がつづくかぎり、過去はあるしかない。つまり、歴史が。


ボタンに糸を通し、りょうはじを指でつかんでぐるぐる回す。
ひっぱる。ボタンは必ずまんなかで回る。
低い音をたてて。あたりをそよがせながら。
それが(バシュラール的な)今の喩え。




月曜日の晩は
琵琶の演奏のDVDを観て、寺田寅彦の映画論をぱらぱらと読んだ。
火曜日の午前中は
万葉集の一節をもとにした声音組織の組み合わせの計算式をつくり、
午後からゴダールの新作を見に、有楽町まで出る。
以下は映画館のちかくにある喫茶店でメモをとっていたものから
さらに走り書き。


1 音


2つのカットが同じ場所、同じ時刻で撮られたものでも、
編集という操作によって接合された2つのカットを見るとき、
カット1とカット2の音のさわりがちがって聞こえる場合がある。
たとえば微妙な風向きの変化、その強弱。
「カット1にあらわれる風の音A」が「カット2にあらわれる風の音B」に
連続しているとみなされのは、
2つのカットでしめされるものが
同じ場所で生起しているものとみなされるからである。
AとBは連続しているため、なるべく同一の音のさわりがもとめられる。
冒頭のシーン。海をつきすすむ客船。
ゴダールはデッキ上に吹き荒れる風の強弱をそのままのこして、
つまり、編集上、同時録音の音を加工せずに、そのまま使用している。
なめらかさを欠いた、でこぼこの風の音。
AとBは連続しているはずだ、だが、どうもギクシャクしている。
物語映画の生命線、「イマジナリーライン」、
その「ライン」を「非−線」化させる。
ゆえに想像界(イマジネール)は破綻する
そのうえ、風を吸収させるためのマイクカバーをつけていないのか、
過度にノイジーなものもそのまま使っている。
それがすごい、というのでもなく、良いというのでもなく、
肯定的に選択されたということだ。
アフレコでなんとかなる、というところを。
どうしてか?
見せたいのは物語ではない。
物語の不可能性である。
時間がいくつもの偶然をはらみ、
いりくんだ現在がたちどころにあらわれ、それは
ゴダールの頭脳内部で起こっているあらわれては消え、
消えてはあらわれる諸観念やイメージとともに、
われわれに届けられる。
「観念が現実を超えることがありうる。ただし、映画という形式においてのみ」
とでも、いいたげに。


2 映像

映像にかんしても
極度のピンぼけ映像、それにさらにソラリゼーションをかけたもの、
むかしの映画を断片を引用し、コントラストをくわえたもの、
『新ドイツ零年』や『映画史』などでも見受けられたが、
ここではより過剰に採用されている。
この映像はフィルム映像なのか、ヴィデオ映像なのか、
境界がついになくなってしまう。
「それが映像でありさえすればよい」とでもいいたげに。
それにしても、
この過剰さはなんだろう。
映像の多位相性によって混乱させる、というわけでもなく、
多位相性を意味ありげな意図として示すのでもなく、そのままに提示する。
『東風』にみられたような引っ掻き傷、
デジタル映像のブロックノイズもそのままにフィルムに転写されている。
見せたいのは物語ではない。
物語の不可能性である。
観念の洪水、観念の破産。意味の崩壊。
目のさわり、耳のさわりだけが前景化し、
それらの薄い表面が
物質のかけらをもとめてさまよう。
ふたたび観念は現実に席をゆずる。
しかし船は、
その内部で起こるあれやこれらに関心をよせずつきすすみ、
地中海、黒海をめぐりにめぐる。
おそらくゴダールの頭脳とも関係なく、すすむ。
ゴダールロマン主義、反ロマンのロマン主義
<戦争としての>ロマン主義
かつてみられたフランス印象派的な水面のたゆたいはなくなり、
ターナー的次元で表出される海−自然の即物的脅威。
ノイエ・ノイエ・ザッハリッヒカイト。
海底から魚影の群れを映す
海上にふりそそぐ光
『軽蔑』の、ギリシャの神々を見守るおだやかな地中海ではなく、
気狂いピエロ』の、反理性的混沌の果ての静穏な海ではなく、
いままさに、海が海であろうとする現在性の観念。
移動する孤島=船。20世紀の戦争、21世紀の戦争。
水平移動は船の発明によって実現した・・・
だが地上のそれは?
炭坑労働のトロッコからはじまった。
石炭の到着なしに列車の到着はありえなかったのだ・・・。
「私は映画界のユダヤ人です」
「人は戦争をするのではなく、戦争映画をつくるべきです。」
かつて(いまも?)五月革命のミリタン、
ダニエル・コーン・ベンディットにシンパシーを抱いていたゴダール
ポチョムキンの階段、ヒトラーの演説の引用を繰り返すゴダール
ドイツ語で歌われるベトナム反戦歌「花はどこへ行ったのか?」
ふと気づく、目を丸くする、
「私は何よりも女に生まれたことを呪った」
といっていたパティ・スミス
客室でギターを弾いている
(数年前に出た彼女の2枚組で、スーザン・ソンタグが美しい献辞をささげていた)



3 音/映像


音の多重性、セリフがダブる。切片化される音楽。
(縦配置の字幕はやりすぎだ、ということなのか、
横配置だけなのは、混乱にさらに混乱をもたらすからか・・
視聴の把握限度はとっくに超えているのに)
後半部、弦楽器の通奏低音
落雷のようなピアノのアタック、そしてサステイン。
響きがスクリーンの背後にかくれた左右4チャンネルに周到に振りわけられ、
黒画面=闇と化した映画館内部が音の立体性を強調する。
音の彫刻でもあり、音の建築でもある映画。
加法が同時に乗法でもあり、しかし、突如寸断される音響が
ゼロの強度を高める、
いや、無へ至るヴェクトルの強さを
音と映像を等価にあつかうといったとき、
文字通り、それらを二分するがよい
物量的に二分する
天秤にかけて水平になるように
慎重に、ドイツ人が塩の分量を正確にはかるように
等価にあつかい、
そうしてはじめて
各々が従属関係からのがれ、
それぞれを自由にあつかうことできる
「まず映像ありき」という近代の視覚中心主義をうたがう
ドミナントが映像でも音でもない、それが最後までつづく映画
ゴダールにとってシネーム(映画素・・・パゾリーニの用語)は
音でも
映像でもない
だが
それをしめすのは
音と映像によってしか
できない
この認識にもとづいているのだろうか
無ともいえない
物自体ともいえない
だが
映画という形式においてのみ実現されるしかない
音と映像を使い
音でもなく、映像でもないものをつくる

非像/非音の最属領化。交截平面。



『新ドイツ零年』でも流れていたナレーション
「国家の夢はひとつになること、だが、個人の夢は二人でいること」


映画は個人を問うべきではない、集団を問うべきである
だが、集団は個人の集まりだ
それでは、個人とは何なのか?
二人をめざさない個人はいつも一人である、
いつも一人の人はもはや個人とさえ呼ばれえない。
(監獄で書いたジュネが「時間のプロ」だったように、一人でいることは、一人であることをきわだたせ、ゆえに空間観念を消す傾向がある)
個の論理が集団の論理と結合し、それが国家に利用されるとき、
うたがうべきはまず個人の観念である。
個が消え去り、自由になることもある。
空間をとりもどす。

人は文体ではない 文体は人ではないから 人にはその人の正しさ、正義はない
人の正義がないところに法の正義はない
だが、法には強固な文体がある

裁くのは何か




最後にPatti Smithの『LAND』(BVCA 27010/11)所収のブックレット、
歌手に捧げられたスーザン・ソンタグ女史の献辞を抜粋。


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その後のことはわかるでしょう、これまでに歌われたこと、歌われなかった事柄のなかから、大切な友人であるあなたはそう言った。それは樺の木のことやジャン・ジュネが他界したパリの小さなホテルのこと、肘やわきの下、あまりにも多くの煙草、長いポールに吊り下げられたウイッグや階下の見知らぬ住人、不愉快な電話のこと・・・。そしてぬかるみに消えた一筋の光、細長い旋回と震動、叫びと高く聳え立つもの。それら異なる声が同時に鳴り響き、声はすべて不協和音。その日はまだすばらしかった。愛らしく落ち着きのない子供たちや人々、みんなの音楽の上昇気流に乗り、意気高揚と体を揺さぶっていた。退屈など無く、落胆も存在しない。女たちはもっと生意気でもっとセクシーだった。なぜならそこにはあなたがいたから。音楽はいたる所へ広がって行く。口のなかやわきの下や内股にさえ。音楽、それは高く高く飛び立って行くひとつの方法。私は唾液と平手打ち、それから皺だらけの汚れた新聞のことを憶えている。あなたは去り、そうして再び戻った。歯を見せて笑ったあなたの顔。その笑顔は未だ魅力に溢れている。夜を取り戻し、人生を取り戻す。そして歌い、しゃがみこみ、ジャンプし、叫ぶのだ。敗者たちのために!

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(2010-12−22)