追悼 2010年


■  追悼 2010年




デニス・ホッパーが死んだ。夏の終わり頃だったろうか、忘れてしまった。かつてバスクリンのCMに出ていた彼も、昔はまじめに映画を撮っていた。『イージー・ライダー』で知っている人も多いだろうが、これを撮ったばかりにハリウッドから追放されたという『ラスト・ムービー』を抜きにして彼の偉業は語れまい。アメリカ白人が、ペルーの原住民に映画づくりを教えるシーンがあるのだが、原住民は映画という観念、考え方、メディウムのあり方を理解できないために、脚本に書かれた「人を殺す」というシーンで、実際に人殺しをしてしまう。人殺し、というよりも、暴動の延長の集団殺戮、という体をなしていた。強烈なシーンだった。23か4の時に、みなみ会館のオールナイトで観て、ロビーにいた社長の佐藤さんに映画がよかった、すごかったと、すぐに言ったことを憶えている。主演・監督のホッパーは晩年のランボーさながら武器商人として広大な土地を旅をしていた。ペルーの美女にうつつをぬかしつつ。ラストはペキンパーの映画にもでてくるような田舎のキリスト教会をバックに赤子の泣き声がとどろいていた。・・・京都の映画シーンを牽引していただろうRCSの佐藤さんもみなみ会館から撤退した、と夏の帰省時に会ったカフェ・オパールの小川君が言っていた。ゴダールを上映しても入らない、という嘆きとともにRCSが解散したという。若いころ、佐藤さん、川北さんにはずいぶんお世話になった。



デニス・ホッパーが死ぬ1ヶ月あたり前か、クロード・シャブロルも死んだ。『虎は新鮮な肉を好む』など日仏会館の稲畑ホールで英語字幕のものを見ていた時期があったが、最初に観たのはシャルロット・ゲンズブールが主演をしていた『小さな泥棒』だった。彼女は女囚の役をしていて、砂漠のようなところで囚人の仲間と取っくみあいをしていたところをぼんやり憶えている。




浅川マキは1月に死んだ。ゴビンダ、などが入っている『DARKNESS2』というアルバムをよく聞いていた時期があった。『こんなふうに時が過ぎて行くのなら』というエッセイ集も読んだことがあるが、飛躍が多く、ありえないほどめちゃくちゃな文章の本だった。何を歌っていただろうか、と今になって思う。




9月のあたまだったか、若松さんは急逝した。バイト先の10歳上の女性で、喉を痛めたということで休んでおられ、1週間ほどして息を引きとられた。美術館によく足を運ぶということで美術の話をよくしていた。彼女は透明のかばんのなかにマネの展覧会のチラシ(ベルト・モリゾが描かれたやつ)をいれていた時期があったが、聞くと、ほんとうは村山槐多という画家がとても好きで、どこが好きなんですかとたずねると「彼はね、男が好きなのか、女が好きなのか、自分でもわからなかったわけよ、恋愛の対象に性別は関係なかったわけ、それで悩みに悩んでいたわけ。」というような返答をされた。京王線の明大前に「book cafe 槐多」という小さな店があり、こんど行きましょうと約束したが、ついに行くことはなかった。おおきな口でよく笑う人だった。




森毅も死んだ。『位相のこころ』その他なぜか4、5冊持っていてまとめて置いている。よい数学の手引書、というのがなかなか見つからなくて買ったのだが、テオニ・パパスの『数学の楽しみ』とともに枕元によく転がっている。森毅の人生も過激といえば過激で、ピーター・フランクルをも想起させる放埒者、放浪家、芸人だった。




母方の祖母、川嶋久子は3月に91歳の生涯を閉じた。喜寿の頃だろうか、白内障で目が弱くなっていたことをあとで知った。家に遊びに行ったときは、映画好きの祖父がおしゃべりな人なので、映画の話ばかりしていた。お前はマキノ(マキノ雅広)のなんたるかが分かっていない、などとと叱られた。何を言い返しても言い返され、言うことは何も通じなかった。そんなところに祖母がやってきて、まあまあ、とお茶菓子なんかを置いていったのだった。祖母とは何を話したか憶えていない。何かを話していたこともあるが、よく思い出せない。戦時中の話や若い頃の母の話だったか。(2010-12-03)