ピロウショット


ピロウショット。pillowとは枕を指し、文章表現における「枕詞」に対応する映像表現としてピロウショットが使用されている。枕詞「たいへん申し訳ないのですが・・・」や「本日はお日柄もよく・・・」は、日本人の得意とするコミュニケーション上での繊細な表現だ。ここには「いきなり本題にはいらない美徳」という考えがあり、「間を置く」という会話作法にも通じるものがある。




たとえば、「昨晩から今朝へ」の連続は一般的には「睡眠中」という経過において正当化されるが、だいたいの映画においては睡眠中の表現をカットする。「朝が来た」つまり「次の日になった」ことを示すためにピロウショットを差し挟む。早朝のランニング。小鳥の鳴き声。お味噌汁の鍋、母親「おはよう」子供「おはよう」父親「あ〜、よく寝れた。」など。本題に突然入ってはいけない。本題が起こる(本日の出来事が発生する)までの過程を十全に見せるための最初の適切な配慮・・ピロウショットがいると見なされてきたのだ。




こうして映画という形態は、語彙(ヴォキャブラリー)や熟語(イディオム)の近似値を、その記号性を獲得し、さらには形式化を推進することに成功した。もはやピロウショットは、「それがピロウショットだ」という認識を超えて理解されている。ピロウショットという概念もいらないし、認識する必要もない、というほどに。




さて、どうしてこのような事態が起きるのか。それは「形式を内面化する能力が観客にはある」からである。(これにもっともはやく気づき、理論化してしまったのは他ならぬエイゼンシュテインだった)。
にもかかわらず(モダニズムの見地に立っていうと)映画制作者がとまどうことのひとつに、「あるひとつのショットの狙いを「観客がどうとらえるか」がわかりえない、という事態が発生する。」がある。たとえば『勝手にしやがれ』(ゴダール)におけるジャンプカットは、当時のフランスの美学者を憤慨させたらしいが、テレビコマーシャルに取り込まれるとすぐにノーマルな表現としてみなされるようになった。大衆はおそらく「ジャンプカット」なる語彙も概念も美学的価値もついに理解せずに、しかし「ジャンプカット」を正当的な表現とみなすことができるようになったのだ。




個人的には、またほとんどの人がそうだと思うが、「ピロウショット」なる映画制作における「専門的な語彙」を知らずとも、このショットは「日の移り変わり、翌日になった」ということを表現している、と理解していた。その理解は日付をもたないし、確たる記憶を要請しない。また、映画制作上の知識や専門的な用語法は、あまり大衆化されないが、これには原因がある。みながみな、映画制作の、技法上の秘密のすべてを知ってしまっては、おそらく映画を見るという価値は一変してしまうだろうから。だから(制度側の)映画においては、ピロウショットなる概念を覚えさせずに、いかにしてピロウショットの表現形式を観客に植え込むか、という詐術の実践が、重要な課題となってくる。