芝居ノート 3





■  ナカゴー特別劇場vol.3  『町家の女とベネディクトたち』




コンサートに行った前日、4日の晩は芝居をみていた。出演者のひとりである桃ちゃんから11月なかばにメールをもらい、返事も出さずに放っておいたら、いつのまにかすっかり忘れていた。2、3日前にたまたま想い出して、まあつきあいで、という感じで足を運んだ。




舞台は2部構成『町屋の女』『ベネディクトたち』で、ふたつは関係ない。話はどちらもつまらない。




(2部の終盤でベネディクトが「静寂」を発見するまで長引いてしまうごちゃごちゃしたやりとり、「静寂」をきわだたせるためにだけゴチャゴチャさせるという短絡演出、あれがすべてを台無しにしていた。(もうちょっとましなプロットの組み立てかたはなかったのか))




さて、2部通して目立ったのはみさきさん演じる佐々木幸子と
ベネディクト演じる篠原正明の声の身振り




セリフを矢のように放つ
声のファルスともいうべき力みを入れて
そうしないと
後ろの観客に声はとどかない
前の観客には大きすぎる声
ここにもう不自然さが発生する
(そもそも自然さなど求めていないのか)




観客を笑わすこと
さあここで
日々のいやなことを忘れてくれ
セリフを放つとは
同時に意味をくみ取れる言葉を放つこと
さあここで、笑ってくれ




アリストテレスが「詩学」で指摘した演劇の浄化作用が
今もなおつづいている
言葉を話す余裕のある者がいて、
言葉を話していると思いこんでいる
操られた言葉
いいまちがいもいいよどみも排除して
不必要なノイズをあたえない



ここに限界があるのではないか
なんでもかんでも伝わるということを前提していて、
それを補強するためにファルスの声、その身振りが総動員される
声は、言葉の制度性に従属する下位概念においやられる
粒子のうごめきを型にはめこみ、
意味伝達の道具として完結する 意味以外をよせつけない 
陰影を欠いた
缶詰にされた いきぐるしい声




この話し方が排除していることはたくさんある
セリフ内容がわるくない箇所も、
あのおおげさな身振りのデフォルメによってすべて台なしになる




どこかでみかけたことはないか
このわざとらしさ 超男性原理
テレビのバラエティーショーで必死になって笑いをとろうとする芸人
思わず声が大きくなり身振りが大げさになる
日本語に吹き替えられた海外のドラマや映画
男の声は太く 抑揚を大きめにつける
FMラジオの男の声の記号性の高さ




テレビを見るように芝居を観る
ということはテレビでも済ませられるともいえる





演出家の鈴木忠志が紹介している

武智鉄二
戦後における日本の伝統芸能の基本的な変化に
即して言っていたことを
(『演劇人』12号 「演出家の視座5」1993参照)

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アメリカ占領期、かれらが洋式便器をもってきたことによって
日本人の基本的な身体のありかたが変わってしまった

日本式のしゃがんで腰を落とす便器によって
日本人は下腹部に力をいれ力強く排便する呼吸を自然と身につけた
長くしゃがんでいれば足が痺れるし疲れるから
早く排便しようと
できるだけ呼吸を止め下半身に集中した
それが洋式になって
いつまでも座っていられるから
身体への集中力が弛んだ

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外的な力、ここでは便器のかたちの変化によって
身体の変容をこうむられる
鈴木忠志が便器以外にあげていたのは
低価格住宅の提供によって
核家族化がすすみ
畳の間と床の間が排除される方向にむかったこと
足裏の触感覚や
複数人のなかでおこる視線の空間配置、その力関係の変化



だが、今の役者にとって
便器の変化なぞはリアリティがないのかもしれない



テレビにでている役者を見て
役者にあこがれ役者をめざす
という人が多いため、
テレビとの連続性を完全に切断しようという意識をもっている人は
少なそうだ





舞台が終わった
連れと二人、外でプカーと煙草を吸っていたら
桃ちゃんがやってきた 
なぜか女子高生風のスカートを履いている
2、3感想めいたことをいったら
「いやー、コレ演劇じゃないから」

演劇じゃない?
では何なのだろう

(2010−12−16)