コンサートノート 4





■  高橋悠治漆原啓子   昭和音楽大学ユリホール  その2




何もない空間

中心にたって、すくっと姿勢をただし、
ゆっくりと両手をあわせる
次にゆっくりとはなし、いっきにパチンと拍を打つ
音がひびく


この場合
音のひびきは空間の角に流される
床下の四画の四隅、天上の四画の四隅、計八隅に
音は貯まる


貯まった音はあともどりできない
残響、残った響きのあらわれが八隅からたちあがるわけではない
耳はどこまで音を追いかけることができるのか


すっきりした空間、ノイズを最小限にまできりつめた空間では
立ち位置や姿勢、みぶりのひとつひとつに敏感になれる
音が鳴っても、立ち位置をくるわされることはない


「さて、さっきの音は正確には何だったのか」
反省作用を生むのも、何もない空間
音がなくなったあとの
膨張したサイレンス



さて
コンサートに行ってから一週間たった
まず想い出されるのは
固定されたピアノストの位置とヴァイオリニストの立ち位置の変化だ
演奏の合間にややちかづいたり、離れたりするその流動的なうごきにしたがって
あらわれでる音のわずかな、そして大胆な変化


ステージ上のグランピアノ
天板が50度か55度くらいに傾けられ、
傾斜が反響板となっていることがわかる
ヴァイオリンの体躯に穿たれた、音に輪郭をもたらすホールトーン
穴から這い出る音の流れ、あらかじめ穴をのがれた音の流れが
ピアニストの奏でる音の数々と戯れあう
鍵盤と天板は直線的、直流的であり、
ヴァイオリニストの立ち位置がピアニストに近づくと
直流が対流に変化する


ステージ背後の壁面にとりつけられている三角形をくみあわせたジグザグの物体
それは音を上下にのがすと同時に左右にものがすことができる
ピアノの天板から上昇した音の気流とヴァイオリンの音の上昇気流とが混交し、ステージ背後の物体にとどけられる 乱流効果を生む最初の地点 


音響は観客席の傾斜にそってさらにあらわれでるが、
耳にとどく音は、あらかじめステージ上の空間で綿密につくりあげられた音響だ


屈折、吸収、拡散作用、ここでは温度と湿度の管理はおろか、音を吸収する衣服の材質までが問題となる・・・綿100パーセントのものでは音を吸収しすぎる、とか、観客はそれを配慮したものを着ていったほうがいいとか)



曲順の変更が告げられ
かんたんな解説が終わったかと思うと
一呼吸もおかずに 演奏ははじまる
すばやい移行 

1曲目のムツィオ・クレメンティの<捨てられたディド>で
すでにクライマックスを迎える 

超絶技巧、複雑にからみ合った透明の糸
一瞬にして焼けもえる糸の塊


ゆるく はやい
はやく やわらかい
やわらかく とけてゆく
とけていきながら 流れない
流れず 止まる
止まり うずくまる
うずくまり  小さくなる
もっと 小さくなる
小さくなり 見えなくなる 軽ささえもないから
なくなりつつあることさえ、ない
ある時 力がくわわって
少しの重みをあたえられ 飛び出す
風にあらわれて 放れたれる
放たれて 自由になる



最初に大きな物語を与えてしまったことを
あらかじめ生きられた人生があることを
つづきはおまけであることを
おまけこそが面白いということを
この曲が終わったとたん そういうことを思いめぐらした



次にエリック・サティの<7つのグノシェンヌ>
プログラムの演奏者自身による曲目解説より、そのままの抜き書き

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エリック・サティ <7つのグノシェンヌ>(1889-1897)

グノシェンヌはサティ(1866-1925)の造語で、クレタ島クノッソス宮殿や王女アリアドネに由来するかんむり座のグノーシス星と関係があると思われている。
1889年のパリ万国博覧会で知ったルーマニアの音楽の印象から、小節線をもたないオリエント風のメロディーとゆったりとしたリズムをもつ曲を1890−91年にかけて作曲し、1−3番だけが出版された。その他はサティの遺品から発見され、4−6番は1968年に、「星の息子」や「なしの形をした曲」のなかに使われたもう1曲は、7番として2006年に出版された。

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サティの音楽は、即物的なのか
一個のレモンを見て レモンの重さがだいたいわかるように
音の形見と音の重量が一致している

このようにとらえられるのは
音に無駄がない エントロピーをそぎ落として
リズムを速度に回収しないことに
関係あるのかもしれない

物に固有の輪郭があるように
音にも固有の輪郭があるということを
サティの音楽はいつも教えてくれる

音楽をきわだたせるためには
音をきわだたせることを追求する
そこで得られた答えが
余計なものをそぎ落とすこと
こうして響きと音は減算的な関係にいきつく

音があるから響きがあるのではなく
響きがあって音がある
正確には<響きつつ音がある>という状態に
音楽そもののを近づけること





むかしばなし
酔っぱらって、酒場の床でよこたえ、眠りこける
アルコールの作用によって
運動神経が麻痺し、指令できなくなる 
動こうとすると動けないことがわかる
からだが一個の鉛となる
あることがわかる
あることがあるものによって証明されるかんたんな方法
そして
横になると一気に浮力をとりもどす 
この瞬間がおもしろい

朝がくるのをわかっていて そういうことをしていた時期があった
寝かかったその時、耳にとどくのはきまってサティの音楽
1886年5月17日、
カルヴァドス県オンフールオート街88番地に生まれたその人の音楽

うす暗がりで、薄明の蒼い空を待つ
この世の神秘だ





10代20代はロジェや高橋アキが演奏したCDで聞いていたが
いつからか3枚セットの高橋悠治のものになった 

ダダの虚無主義 破壊の音楽 ではなく
ひとりでいることのユーモア
そういった人たちとの出会いによって生まれた音楽
神秘主義にかたよらず、
だからといって論理を信仰するのではない

場に埋没するのではなく 場を反らすために場に潜り込みつつ
出てゆく そういう人がサティを聞けばよいと思う

3枚組のCDはたまに人にすすめて かしたりもしている
たいていの人はよろこぶ


 


次に高橋悠治<オドラーデク>(1986改訂2010)

オドラーデクはカフカの短編に出てくる奇妙な物体
コンサートは3人で行ったが
演奏前にそのうちの一人とオドラーデクの形について話した

その形を観覧車の形を縮小化したもの
8ミリフィルムを現像液にまんべんなくつけ込む
観覧車の形をしたもの
そのような形だと想像していたが

彼は横型の観覧車 
映画の原初的形態であるゾーエトロープのような原理をもった
なにかだと想像していて

そのくいちがいが面白いなと思った

5分の曲
灰色の透明性のなかにオドラーデクの色とりどりの糸が想像できる
中心がなく、したがって周縁もない
だからといって拡散するのではない
響きの交差する場所があらわれたり、消えたりする

たしかベンヤミン
ドイツで子どものおもちゃを研究していたころ言っていた
「子どもは回転するものが好きだ」

回転するもの 糸巻きをささえる台 レコードプレーヤー 
その回転板を動かす平べったいゴム 扇風機の軸 
福引きのガラガラ 地球や太陽 

背後に音を感じ くるっと向きをかえる

日陰を避けて暖をとる 日陰がだんだん移動し
それにつれて人もまた移動する 
これもまた
知覚できないほどのゆっくりとした回転




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高橋悠治の文体をまねて かんたんな感想を書いた
書いたというよりも コンピュータのキーを叩いた
叩いたというよりも 滑らせていただけかもしれない

筆圧のない指先のなめらかな運動が一定時間づづき
末端神経は またちがった感覚をもたらす喜びをほっしている
ワープロの時代はそれぞれのキーを支えている弾力が感じられ、
指がキーを離れる反発と跳躍の感じが
より具体的なものだったように思う

古来より
書くことは指と文字とを結ぶ垂直的な関係でなりたっていたが
今は水平化しすぎている

指のはらをパネルにそっとなでるだけ
これでは退化しないか


(2010-12-13)