近況









しばらくギターとピアノをずっと弾いていた。いくつかメモを。

ギターは弦の響きをそのまま外に放つので、これは自然音に近い。ピアノも弦楽器だが、弦を箱の中に閉じ込めているので、響きはいったん内包されている。だがグランドピアノであれば、天板(専門的になんというのかは知らない)の調整によって響きそれ自体を調整できる。

たとえば、水道の蛇口をひねって、皿洗いをすると、その音はピアノよりもギターの音に近いということがわかる。自然音は箱に閉じ込められてはいない。アコースティック・ギターの箱(ボディ)は響かすための機構でそれは自然音に対する反響装置(たとえば部屋の壁)に相当する。穴が開いているのだ。
(それでは部屋の外から聞く皿洗いの音はピアノ音的だといえるのだろうか?たぶんそうだろう。)


ギターにはフレットという音階発生の物理的規制があるが、それは弦に指を添えることによって、確定される。また、その規制をズラすために、チョーキングしたり、ミュートしたりできる。あとはヴィヴラートか。

ピアノはジョンケージが「プリペアド・ピアノ」という手法で弦の間にゴムなどをはさんで、ミュートに相応することを実践したが、チョーキングはできない。チョーキングできないピアノだが、70年代以降は、シンセサイザーで(左端についていたレバーみたいなもので・・エンベローブというんでしたっけ?)電子的かつ機械的に近似的なことをできる。

ギターもピアノも半音が基本的な音階の原理になっているが、基準は、1を二分することにある。0、5と0、5の多様な組み合わせによって音階を決定してゆく。0、5プラス0、5の1は長1度で、半音に対して全音と呼ばれている。(純正律のことはわからない)

ピアノはリジッドな構造(形式)を確定することに成功したが、そうでなければよい音楽が作られえないと信じられてきたからだろうか。西洋音楽の世界的流通はまことに恐ろしいものである。それにならっているギター音楽も恐ろしいものだ。恐ろしがっている場合ではないが、哲学や文学など足元にも及ばない強力な何かがある。(だから音楽は制度音楽に対抗するものとして非常に重要なのだ)


そうして、先日からの途中で終わっているデュラス・ノートをつづけるために、「インディア・ソング」(デュラス監督映画『インディア・ソング』のテーマ曲)を聴きなおし、A(ラ)とD(レ)の短二度(シャープ)をルートに設定して耳で拾っていて、黒鍵メインで弾いたほうが弾きやすいことがわかった。が、これもまた音楽的「音楽」だということには変わりないだろう。


事物の見え方が変わる、ひいては映像を撮るときや編集するときの感覚が変わるのではないかという仄かな期待のもとで、次に映画シナリオを譜としてとらえるための手段として、楽器と戯れていたが、音楽は弾けば鳴り、耳にすぐ届き、驚きを与えてくれるので、それだけに、欲動が倍加してしまいがちだ。


「何をおいても、まずは音楽を。」と数学者のパスカルは言った。はるか昔の西洋圏で。