映画ノート 19

■ デュラス 『トラック』





戦後日本の前衛芸術の牙城ともいえる草月ホール。1960年代、ここで草月流の活花作家、あるいは前衛活花作家の勅使河原蒼風を筆頭に、あるいは彼のパトロネージのもとで音楽、演劇、映画、美術などをクロスさせたステージングがとりおこなわれた。勅使河原宏高橋悠治武満徹ジョン・ケージロバート・ラウシェンバーグetc・・なかでもケージが来日した際のラディカルなステージングを収録した『ジョン・ケージ・ショック』がリリースされたのは記憶に新しい。




さて、3月20日の晩マルグリッド・デュラス生誕100年を記念して彼女が1977年に監督した『トラック』がアテネ・フランセの企画で上映された。フランス領インドシナ(現ヴェトナムのホー・チ・ミン)に生まれ、18歳にフランスに帰国し、作家活動を展開してゆくことになるこのタフで繊細な女性に関しては、日本ではおそらく『愛人 ラマン』(1992)という商業映画の原作者として知られていることだろう。主演にレオン・カーフェイを配したこのメロドラマと『トラック』は、しかし、似ても似つかない映画である。というよりもデュラス自身は多分に不満を示していたのだから、まずはデュラスにまつわる一般的なイメージを完全撤去した上で、この『トラック』にノーテーションを加えてみたい。そして『トラック』が上映されたのは、おりしも赤坂迎賓館草月ホールの真前にある)においてヴェトナム主席夫妻と皇室が会食したその翌日であった。




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(以下、途切れ途切れになります・・気が向いたときに書きますが、断章で。)







砂場、滑り台、遊具、他の男の子、女の子に混じって、子供が公園で遊んでいる。真昼には一人で遊ぶ子供。午後にはみんなと遊ぶ子供。いろんな子供がいた。公園の地面にトラックのタイヤ・・・、それがやけに目だっていた・・・もちろん使用済みのものだが・・・が地面に数個、等間隔で埋め込まれていて、その上に乗って遊んだり、あるいは、跳び箱の変わりにもなっていた。トラックのタイヤは大きく、分厚く、どす黒く、夏には太陽光を吸収して、やけどしそうなくらいの熱を帯びていた。1970年代・・・このころにはまだジャングルジムという遊具もあった。厳格な三次元グリッドに身を収め、移動し、アクション・スターという表象のジャンルにすんなりと入り込めるように、幼少期における知覚経験の条件が整えられた。(9:36)







デュラスが1977年に監督した『トラック』の冒頭のシーンにおいて、1で記述したそのタイヤの存在感を見事に捉えた(あるいは見事に讃えた)ショットが採用されている。ブリュノ・ニュイッテンのクレーンアームを駆使したゆっくりと、そして堂々と大河を流れる水のようなカメラワーク。郊外の土地の絶望的な退屈、遠景を遮るように巨大なトラックが忽然と存在している。トラックは動き出す。と同時に、カメラは「トラックアップして」ゆっくりと近づく。今まさに、動き出したトラックに。スクリーンが緩慢に動くその躯体で満たされたのち、カメラはゆっくりと下降する。やや俯瞰で。ここで画面にタイヤが現れる。あの巨大な、ある種の畏怖心を抱かせるに足るトラックのタイヤ・・・・トラックはU字のカーヴを描いて、画面の遠景部から消滅する・・・砂埃・・・・・くすんだ郊外・・・(9:58)






近代の条件としての「回転する事物」。ゴムをどろどろに溶かし、ある種の鋳型にはめこんで、冷却した<生産−流通−消費>のコア・マトリクスとしての<タイヤ=回転物=オブジェ>である。この<近代−絶対的イデア>という抽象モーターに隣接する社会的−具体的メカニックとしての主要モーター=タイヤ。諸機械/諸生産/諸流通。それらを周到にトータライズする<国家−国土−道・・・つまりは領土・・・>・・・石や何かをどろどろに溶かし込んで、コンクリートを、アスファルトを一気に平面化すること。円滑に、円滑に、決して経済機構をストップさせないこと。・・・かくしてロードムーヴィーの国家的条件は整えられた。・・・だが、『トラック』はロードムーヴィーではない。むしろ反−ロードムーヴィーというメタ・モチーフに循環させるべく、その画面を、音を組織したメタ・シネマなのである。(10:10)






ホテルの一室、二人は椅子に腰掛けている。デュラス、そして俳優のジェラール・ド・パルデュー。二人は紙片の束をちらつかせている。この『トラック』のシノプシスだろうか、あるいは決定稿となったシナリオか、簡素な部屋の内部でそれらの紙片に定着したテクストをめぐって、デュラスがボソボソと呟いている。ということは『トラック』は「これから作られる映画についての(今まさに映し出されている)映画」であり、<二重の時制>が<同時に>スクリーンに並走しているのだ、といわねばなるまい。「これはいったいどういう映画になるのだろうか?」「これは郊外の映画よ、そして最初はトラックの座席には誰もいないの・・・看板は決して写しちゃいけないわ・・・郊外は、そう、くすんでいるのよ・・・常に・・・」こういった二人の、男と女の会話がえんえんと続くのである。われわれは<メタシネマ=映画についての映画>だということに、奇妙にねじれた感性をはたらかせなければならいのだ。意識的に。(22日 10:44)






4で記述した室内のシーン。そしてもうひとつ、「トラックから眺められた風景/トラックの内部/トラックの動きを外側から捉えたもの」のシーン。トラックを構成するのは、この二つのセリー(系列)である。およそ映画とは、複数のバラバラなロケーションにおいて撮影したものを恣意的にひとつにまとめあげるという単純な原理に依拠している。あらゆる映画はセリー主義をなかば宿命づけられた主義としてその内部に大きく抱えこんでいるのだ。(22日 10:50)






『トラック』におけるたった二つのセリー。これは徹底的に貧しい選択だといわねばなるまい。ゴダールならば、長距離ドライバー、トラックの製造工場、そこで働く労働者、その家族を撮影しそうなものであるが、デュラスは絶望的に貧しい方法を選択する。しかし、この貧しさこそが、ありとあらゆる意味で良質のシンプルネスと通じているのであって、ここにア・プリオリな猥雑さ=雑多性を負荷された映画という表象形式へ意識的なコーション(警告)があるように思えてならないのだ。このシンプルネスはただちに「ミニマリズム」と言い換えることもできるが、この「ミニマルの問題提起」は今ここで語るべきではない。(22日 11:00)