メモ 3


■ケージからサティへ



電車の中、『ジョン・ケージ著作選』を読みながら、あれこれ頭を過ったこと。いわゆる現代音楽をわりと熱心に聞いていたのは、20代全般で、鴨川べりにあるゲーテ・インスティトュート(関西ドイツ文化センター)でおこなわれていたマウリツィオ・カーゲルのコンサートやフルクサスの塩見美枝子さんのパフォーマンスなど、そういう地味なイベントにたまに足を運びながら、(音楽に限らず、芸術創造全般の)「方法論」ということを考えていた時期があった。(しかし、現代音楽に耽溺することなく、一方でブルーズのバンドとか、クラブカルチャーにも足をつっこんでいたので、いまだに現代音楽については、感情的にも、理性的にも、いかにも中途半端な態度しかとれない)。


それでも、かの有名な『小鳥たちのために』というケージとダニエル・シャルル(フランスのケージ研究者)の対談本だけは、とても偏愛していて、リピートして読んで、映画制作の精神的な糧にしていた記憶がある。(そういえば、文鳥を4匹部屋で放し飼いしていたこともあった)。ケージという人は「おもろいおっさん」という印象がとても強く、数学(確率論)とか文学(ジェイムズ・ジョイス)とか援用しながらすごく知的なこと言うてはるんやけど、結局「おもろいおっさん」に帰着してしまうのがとても稀少だな、と思う。そして、ケージのいいところ、というかもっとも過激だったのは、アメリカの音楽シーンにおいて、エリック・サティ(1866-1925)を徹底的に擁護した(ほとんど反抗的に擁護したといってもよい)ところにあり、その結果、日本における80年代の「ジムノペディ」ブームの恩恵があったのだ、と僕は思っている。


でも、実のところ日本におけるサティ輸入はもっと古い。(音楽ファンにとっては常識中の常識だろうが)サティ輸入は作家の坂口安吾がノイローゼ治療のため、御茶の水にある「アテネ・フランセ」に通っていた頃、1枚のレコードをみんなで回しながら聞いて、ジャン・コクトーの書いた「サティ論」(『エリック・サティ』深夜叢書)を安吾自身が翻訳している、この当時にまで遡る。(余談だが、日本においてダイヤモンド製のレコード針を最初に売り出したのは小林秀雄の親父である)。


だからなんなのか、という話だが、来年はケージ生誕100年にあたる年であり、日本でも多少盛り上がりを見せそうだが、サティの事も忘れてはならんだろう、と予防しておこうと思ったのだ。なお、日本におけるサティの初演は「高橋アキ」(高橋悠治の妹)によると誰かに聞いたことがあるが、これはまだ未検証である。(2010-06-27)