2009年についてのソフトな会話


■2009年についてのソフトな会話



●「2010年です。」
▼「10まで行ってアガリ!っみたいな感覚ってあるんか?」
●「むしろ下がって0になって上がるっていう感覚の方が一般的なのかも。ロケット発射とか映画のカウントリーダーとか必ず10から始まるじゃない。10秒ってのは、何かを始める前に必ず数えるにふさわしい時間なのかな。6から数えたら、呼吸合わない、みたいなのってあるんじゃない?」
▼「では、2009年の分まとめときます。時間軸めちゃくちゃだけど。」
●「どうだった?」
▼「そうそう変わりないなあ。7月に40歳になったけど、とりあえず「40にして迷わず」って感じかなあ。40歳で無意識的に前面化してくるのがやはり体のことで、柄にもなく健康を診断したんだけど、白血球がめちゃくちゃ多くなってることが判明して、放っといたらまず痛風になって、白血病で死にますって言われたな(笑)。あとなぜか視力が良くなっていた。」
●「免疫機能が高すぎることだって聞くけどね。白血球過多は。」
▼「そうそう。まあ適度に気をつけます。」
●「唐突だけど、さっき<標準語喋っている人って冷たい人だなーって思いますか?>って聞かれたんだけど、私はそんなこと思わないよ。」
▼「関西弁は冷たくない、むしろあったかいっちゅうことを言いたいんか?」
●「だいぶ前だけど、都内の女子高生の間で関西弁使うの流行ってたの知ってる?」
▼「知らんけど、標準語使えば使うほど、オレは冷たい人になってしまうかもしれんなって思ったことはあるなあ。使っているうちにそうなるっていうのはあるんちゃう?極端に言うと、四つん這いで歩いているうちに、とうとう言葉忘れてしまったっていう。アレ?ワンってしか言えへんなーオレ、みたいな。アニマライゼーションされたポスト・モダニズムやな。」
●「そうかな。」
▼「言葉も服とかとおんなじで、多少演技を強制させられるとこあるのとちゃう?今日着てる服を演じてる私、みたいなん。」
●「関西弁使っている限り、笑いとっとかなやばいなー、とか。」
▼「ちなみに、オレは京都いたときから標準語と京都弁とバイリンガルして使ってたで。ちゃうちゃう。っていうところを違うよ、と言わずに、ちゃうからさー、とかちゃうからやー、ってそんな感じやけど。」
●「ちゃうやんーって言うところをちゃうからさー。って言う。」
▼「語尾に「さー」ってつけると空間がスカッとするんやわ。やっぱり発音しても多少気持ちええんやわ。」
●「関西弁でいちばん面白いのは「ちゃうんちゃう?」っていうやつね。「違うのと違いますか?」の崩した言い方。普通に「違う」って言えばいいのに。あと、関西は語尾にねん、と、やん、つけるなあ。」
▼「そやねん。ねんはほんまにねちっこっ!って思うけど。」
●「最後に「ん」、つけるのは締まりがつくんよ。おかあさんとかおかあさ、で終わったら不安でしょ?おかあさ、おとおさ、なんやこの気色の悪い子はって。」
▼「昔、なんかのイベントの打ち上げで隣にたまたま座っていた詩人の野村喜和夫(たしか10年前くらいにNHKで詩の講座やっていた)っていう人が言ってはったんやけど、ガ行つけてるもんは存在が強く聞こえるっていうってはたなあ。詩人てこんなこと考えるんやーってえらい感心した覚えがあるな。」
●「どういうこと?」
▼「ガメラとかゴジラとか強い存在はガ行いれなあかんねや。」
●「ガンダムとかでしょ。ゲルググとかめちゃ強いね。ガガーリンとかも強い。ダダイズムも強そう。」
▼「けど、ダダイズムよりもダダダイズムの方が強いというわけではない。」
▼「ともかくゴレンジャーとかマジレンジャーとかああいう強キャラには絶対いれなあかん。だいたい8音あるうちに2音はガ行ないし、濁音いれなあかんようになってんにゃろ?」
●「にゃろ?・・・強いっていうことは男性的っていうことかしら?けど、ガ行はそんな流行らないと思うよ、今は。なんでもかんでもつるっとしててすべすべみたいんなのが蔓延してるじゃない。デザイン界、主にカメラとか車のデザインっていつのまにかつるつるかつ曲線的になってきた、バイオモルフィズムって言うけど、本当の生物の世界はもっとゴテゴテしてるよね。きっと。」
▼「そやね、何時からかアク抜きが蔓延した。ゴリっとしててザラッとした感じがちょっと隅に追いやられているっていう感じやね。マジレンジャーよりポケモンの時代やし、ボケモンでもうけへんし、ボゲモンやったらまぬけやし、ポケモンがやはり愛される時代がどっかではじまったんやなー。」
●「ポケモンなんて、もうとっくに終わってるんじゃない?、しかし、パ行は愛されるね。パパー♪は愛してる表現やけどババア♪はなりたたないからなあ。」
▼「ガ行中心性はファロス中心主義的には違いないけど、音二つ用意してわずかにズラして鳴らすだけで、音濁っとるやんってなるやん。カとガの違いって量子力学的かつ比喩的に見たら、絹ごしと木綿くらいの差なんやろか。」
●「この話おもんないなー。なんか別の話しよ。っていうか全然2009年まとめてないし。」
▼「(笑)。ちょっと今へんな作品用意してて、多分2010年5月くらいに上映するけど、言葉っちゅうか日本語文法を解体するためにはどないな方法導入したらええやろかっておもてるんや。」
●「あんたまだ映画撮ってんの?しつこいなー。はよ辞めて、ちゃんと就職しいやー。」
▼「はっはっは。四十にして迷わず。いや、今までもぜんぜん迷てへんけど。まあ、しかし今やめても思い残す事だらけやし、未踏の地がまだまだいっぱいありすぎて今の生活ペースやったら多分300年くらいかけてやらなんのやけど、そんな長生きする自身あらへんしなあ。」
●「300年後のことくらい考えないとおもしろくないよね。確かに。」
▼「そやろ?3000年後のこと考えたらほとんどニヒリズムやけど、いろんなことがどうでもよくなるし、精神衛生にもええで。しょーもないことで凹んでたらあかんということがわかる。」
●「そういえば、あなた痔になったって聞いたわよ。」
▼「痔は前からや。クーラーのせいでなるだけで、慢性的なもんちゃうよ。」
●「ボラギノール常備してるんだって?」
▼「そうそう、前、部屋に遊びにきた人が、・・・ノガミさん、「ヂ」ですか?って聞いてきて「お前、なんでオレのケツの穴のことまで知ってんねんっ?!」ってなって、しかしなんのことはない、部屋の片隅にコロがってたボラギノールのチューブ見つけただけなんやな。ハッハッハ。」
●「カッコワルー(笑)」
▼「ボラギノールのCMって子供の頃見てて「こんなドえらいベッピンさんも痔になるんやなーかわいそうやなー、とか思てたら自分もなってたって言う(笑)」
●「日本人は痔持ちが多いからね、別にどってことないわよ。」
▼「そやな。」
●「しかし、なんの話?これ。」
▼「去年は、いかにたいしたことしてないかっていうことやな。」
●「そうね。まあそれはそれでいいことだよ。」
▼「そうそう、1月にちょい飛ばしすぎて撮影して、あ、もう2009年終わりやな、みたいになったんかも。しかし、1、2月あたりは撮影づくしだったよ。2008年も三が日は撮影していたけど。毎年思うけど、12月半ばから1月半ばにかけての光線が一番美しい。空気が光に洗われる感じがどこか違うんだな。物の輪郭がシャキっとしている。空気が澄んでいるって物理的にどういうことなんだろうか。」
●「ああ、1年生き延びたー。っていう感覚も作用しているんじゃないかしら。撮影していて何か気付いたことあった?」
▼「そうだな。今度1月31日に『磁器と火山』の完成準備版を上映させてもらうんやけど、これは舞台俳優の人たちだけを使った。シナリオの読み合わせとか、端から見ていて面白かったな。彼らは脚本のことを最後まで台本って言ってたけどな。最初、新宿のレストランに主要キャストを集めて渡したんだけど、その場からもう読み合わせが始まっていて。」
●「そういうことって今までなかったの?」
▼「だいたいぼくはあんまし脚本書かない方だから。今回も主演男優にせがまれて1週間くらいで書いた。役者にとって台詞が与えられるってとても大きなことで、ほとんど贈与品に等しい。」
●「主演男優も映画撮ってる人なんだってね。」
▼「そうそう、三池崇史監督の『マカロニ・ウェスタン・ジャンゴ』なんかのエキストラに出演している傍ら舞台もやりーの、自主映画も撮りーのしている男性。彼は映画の現場を非常に理解している。例えばカメラポジョンを瞬時に把握して自分がどう動くべきであるかとか、この角度で立ったら太陽光線をアップの照明に使えるとか、そういうことをパッパッと頭の中で計算しているんだね。だからか現場は非常にスピーディーだった。」
●「かっこよく写りたいとか可愛く写りたいとかっていう欲求って誰にでもあるんだと思うけど、そういう役者の願望っていうのはどう処理したの?」
▼「役者たちは、今、この光線だからこう写るべきだとか、たまたま停車している赤色の車をフレームインさせるんだったら、オレはこういう動きをした方がいい、とかの判断を割合勝手にやっている。ようは<映える>映像作りこそが、かっこよさ、可愛さというイデアに先行するんじゃないか?この前提を共有できるかどうかによって<アドリブ>の方向がずいぶん変わってくる。わかりにくい言い方だけど即興に甘えるんじゃなくて、偶然を利用する方法を複数化することによって、即興を意識的に解体する方向に向かわせることができる。」
●「女優さんはどうだったの?」
▼「女優さんも、ベタな言い方だけど、演技の上手い人だったな。演劇臭さを回避する方法って、まずは感情発露のエントロピーの微調整だよ。」
●「どういうこと?」
▼「アクターズスタジオなんかで、マクシマムな感情発露の表現っていうのを必ずやる。例えば「悲しい」ひとつにとってもおそらく10種類くらいの悲しさの表現が可能なんだろうけど、緩急をつけずに最大限の悲しさにまずは没入させる。最大限の悲しさって映画的に言えば、大声で泣くっていうことになるんだろうけど、これをそのままやっちゃうと必ず演劇くさくなる。映画と演劇が通底しているところは即物的に言って、舞台俳優がそのまま映画俳優として出ているっていうことが一番大きいんだけど、映画と舞台の差異をきっちり理解せずにやると、だいたい映画の演技に演劇の演技をもちこむことになってしまう。手のクローズアップとかロングショットとかの<イデー=理念>をないがしろにしてしまう。」
●「今回の主演の男性のように、自分で映画に出たいんだったら、自作自演でいいからチャッチャと撮っちゃうっていうのはかなりいい事なんだろうね。で、内容はどんなの?」
▼「前にも言ったけど、今、僕がもっとも注目している女性、故人やけど大木よねという人にちょっとフォーカスあてた、バーレスク風のフィクション。」
●「ぜんぜんわかんないや。」
▼「まあ、そういうことは特設ブログの方http://d.hatena.ne.jp/imagoni/見てください。1、2月にめちゃ集中して撮影してて、終わったのが4月頭くらいで、その後花見三昧で、5月はボケーとしてて、6月に長い事かけて撮った短編(『本日休業』)仕上げて試写して、9月は、もいっこの長編の追撮して・・・。」
●「けっこうやってるじゃない!」
▼「そやな、今までにない満身創痕ぶりかも。」
●「そんだけ、パソコンに編集ネタいれてんの?」
▼「いや、もういっぱいいっぱいでとうとうハードディスク取り付けた。作曲も意外に面白くて、いや実を言うとガレージバンドっていうおこちゃまソフトで作ってたらあまりにも曲作るの簡単すぎて全然面白ないなーと思てたんやけど、細部に凝り出したら、まあまあ面白なってきて、マイクで、寅さんの声とか、自作映画の自分の関西弁のおっさん丸出しのセリフとか入れながら曲作って、podシャッフルで聞いてたらけっこう面白なってきたな。ダイアナ・ロスの「恋は焦らず」の次に「なんや、誰かと思たらオレの声やん」みたいな。ほんで、いきなり808ステイトのキュービック(名曲です)みたいな、曲がはじまんねん。がっはっは。」
●「それ、いいなあ。寅さんの声でアブストラクト・テクノとか全然作れるじゃない。」
▼「けど、一番オモロいのは自分の声やで。昔、柄谷行人がある程度理論的にスケッチした(「鏡と写真装置」)ことだけど、昔テープレコーダーに録音した声って、「いや、これはオレじゃない」っていうのあったやん?そういうのないねんよ。これディジタルやしかなあ、どうなんかなあって思うんやけど。」
●「自己と自己からのズレがぱっと出てきたんやね、アナログメディアでは。」
▼「それはそうと、オレけっこう自分の映画出るの好きっぽいな。」
●「ナンニ・モレッティとかヤッホー・シリアスとか格好いいって思うな。自作自演ってバカにされがちだど、ユーモアの極限だよね。」
▼「まあアイロニーの極限っていう味方もあるけど、少なくともナルシシズムでもスノビズムでもないな。」
●「さっき言ったバーレスクってどういう意味?」
▼「まあ平たく言えば滑稽劇ですな。」
●「ふ〜ン。」
▼「作家の鹿島田真希が「私は聖なる愚か者を描きたい」って言ってて、「そうそう、オレもそうそうっ!」って思ったな。オレオレ状態。、鹿島田真希は新作全然追いかけてないけど、『白バラ四姉妹殺人事件』とかやっぱいいよな。冒頭のセンテンスだけで、「ああ、これいい小説」ってなってたもんなあ。」
●「善悪の彼岸を知ろうとなれば、まずは悪人たれって誰の言葉やっけ?」
▼「聖愚の彼岸を知ろうとなれば、まずは愚者たれっていうことやな。」
●「だいたい表現するなんてのは恥ずかしいことだし、愚かなことなんだな。けど、恥ずかしいことしたいし、愚かなこともしたいものね、年くっても。」
▼「そう、すかしてすまして生きてるだけやったら、単細胞やし、よけいアホに見えるかも。しかし、この歳なってまだ立ちションとかするからなあ。」
●「君の方がアホだよ。」
▼「そりゃそうだ。(笑)」
●「そういえばダムタイプの音楽担当で知られる池田亮司の展覧会、新国立美術館だったかな。あれはすましすぎ?」
▼「あれはあれで、ええと思うで。しかしあの時、めちゃ酔っぱらってたから、まんまり覚えてない。マックス/ミニマムっていう設定があったと思うけど、やっぱり高音のサインウェイヴの人やなあって思った。ワインで酔っぱらったような頭のグワングワンとした重圧領域をもっと加工できるはずなんやろけど、ちょっとおさえ気味のような気がしたな。」
●「ダムタイプは観たことあるの?」
▼「京都時代にダムタイプのメンバーが知り合いにいて、結局観に行ったことない。話だけ、めちゃ聞いてたから。それはそうと、ダムタイプは「オー!スーパーマン」で知られるローリー・アンダースンのパフォーマンス作品『0&1』の影響めちゃありなんやでー、っていうかそれが出発点やった。美術関係では、なんか観に行った?」
●「結構行ったけど、なかでもブリ美(ブリジストン美術館)でマティスの時代っていうのやってて、それがまずまずよかったかな。」
▼「あっ、オレも行った。」
●「まあまあだったね。別にマティス目的で行ったわけじゃないけど、常設展の方がよかったかも。」
▼「フォーヴっていう括りに興味ないし、マティス本人に絞ればやはり面白いな、っていう素朴な感想かな。」
●「デュフィとか、どこが野獣派?っていう・・」
▼「フォーヴっていうのもジャーナリスティックな呼称だったんじゃない?映画でいえば、エリック・ロメールのどこがヌーヴェルバーグだったんだって言う。」
●「常設と企画展とごっちゃに展示してあったのかな。一番感動したのはクールベ(1819〜1877)の「石切り場の雪景色」だったわ。雪の中で鹿が疾走しているだけなんだけど。」
▼「あれ、よかったね。完全にジョン・フォードの西部劇に継承されているような画格だったな。ぼくも絵画におけるキネティカリティを注視したりする方なんだけど、ラスコーの壁画に描かれた動物とジョン・フォードの馬を媒介する絵画と言えば言い過ぎかな。」
●「たしかエイゼンシュテインが「映画で描写されるにもっともふさわしいのは動物の屠殺シーンだって言ってたけど、それに相応するような運動性が凝縮されている。」
▼「これ、クレディットによると、描かれたのが1870年頃だけど、ちょうどヨーロッパに鉄道が敷かれれはじめた頃なのかな、イギリスのターナー然り、速度に対する憧憬がグワーって出てきたんだと思うよ。」
●「速度、と言えば水彩の方が遥かに速度感を表出できるって思ったわ。」
▼「それは水に絵具が浸透する様子が視覚的に認識しやすいからだよ。ていうか認識が知覚を後追いできる。作品は何?」
●「そうね、モーリス・ド・ヴラマンク(1876〜1958)の「風景」っていうやつかな。余白を余白として定義するんじゃなくて、余白なんだか白なんだか模様なんだか、中空を舞うほこりなんだか、わからなく描いているっていう感じがよけいにそう思わせたのかもしれないな。」
▼「ふううん、そうか。速度、と言えば、まずイタリアの未来派を想起するけど、面白い視点だね。しかし、今井俊満からジャン・デュビュッフェまで現代美術もけっこうあった。」
●「今井俊満ってフェリックス・ガタリの『分裂分析的地図作成法』っていう本で紹介されてて、それで初めて知ったな。」
▼「懐かしいね。たしか宇波彰訳。京都時代の話だけど、宇波訳を同じガタリの訳者でもある杉村昌昭さんがぼろくそに批判していたのを今、思い出した。その時、今、ガタリのドキュメンタリー撮っている若者がフランスにいるって聞いたけど、どうなったのかな。」
●「宇波さんとはなぜか、2年前くらいに目黒での宴席で一緒になって、老齢なのにピンピンしてて驚いたなあ。」
▼「今井俊満の『ECLIPSE』はサザエの表面のようなザリっとした猥雑な感じが魅力的だったね。絵画は絵画ではなく、物だっ!っていいきっている感があった。」
●「デュビュッフェもはじめて見たけど迫力あった。『暴動』(1961)っていう絵だけど、エイズで死んだキース・へリングも影響受けてたんじゃない?6人のテンガロンハットを被った男の(ほとんど)マンガ絵なんだけど。」
▼「スライ&ザ・ファミリーストーンの『暴動』っていうアルバムがあるけどこの絵から来てるんじゃないか。暴動で爆弾放り投げてすぐ逃げる、逃げまくってアジトでビクビクしているんじゃなくてヘラヘラ笑っているっていうコメディックなパフォーマンス。」
●「和物ではどうだった?」
▼「安井曽太郎の『鹿』がよかったな。婦人雑誌の表紙絵なんだけど、広辞苑の装丁をしている人とは思えない。端的にすばらしかった。」
●「ところで、私はマティスの切り紙絵をはじめて見たんだけど、」
▼「<JAZZ>のシリーズだね。」
●「そうそう、紙が貼ってあるんじゃなくて、型紙の内部を塗ってあったっていう。」
▼「紙が貼付けてある作品もあったんちゃう?」
●「展示してあった『JAZZ no.4』は型紙だよ。」
▼「そうだったかな。」
●「そうよ、これ、ちょっと感動したんだけど、マティスが切り絵をやった必然性がやっとわかったわ。」
▼「切り紙絵はデッサンと色彩の永遠の葛藤を解決する!」
●「そう、言い換えると線と色の葛藤を前提していない絵画はダメだっていうことになるのかな、と思って。」
▼「リアリズムのフォルムと本当のリアリティそのものは違うんだってことかな。」
●「あんぱんそのものはリアリティだけど、アンパンマンはリアリティのフォルムなんだよね。」
▼「そんな次元の低い話?」
●「マティスは20世紀イラストというジャンルをも準備したんだと思うんだけど、事物の輪郭を先に描いてその内部を塗るという手続きはどうも嘘くさいという懐疑があって、色彩が目に与える直接性の方にリアリティの重きをおいていたんじゃないかしら。」
▼「そう、マティスジョイスの小説、『ユリシーズ』の挿絵とか、マラルメの詩集の挿絵なんかも書いてるんだよね。っていうか現代のバナキュラーなイラスト見ていても、マティスの影響ありありでしょ。」
●「そうね。マティス化する現代奥様っていう現象はマティス化する現代室内っていう現象と連続していて、女性文化全般はマティスの『コリウールのフランス窓』とか、否定するわけがないっていう・・・その生活空間の美学的ノルマリティを現代イラストが後押ししている。」
▼「話変わるけど、ハンス・ホフマン(1880ー1966)っていう人の絵、『push&pull』がよかったな。これが一番よかった。ジャクスン・ポロックとともに現代美術の流れで展示されていたけど、マティスの切り絵が抽象表現主義に与えた影響がまざまざと見てとれる。」
●「あと現代彫刻界で有名な、コンスタンチン・ブランクーシ(1876ー1957)の『接吻』も展示されていた。」
▼「あの四角い顔のやつね。しかし、彫刻もなかなか充実していたな。ぼくはオシップ・ザツキンていう人の作品『ポモナ』が一番印象的だった。」
●「そうね、アレキサンダー・アーキペンコのブロンズなんかはジャコメッティ的小頭性だけを強調した抽象人体の後ろ姿なんだけど、彫刻が具象に留まるっていう苦痛(一種の受苦性)を感じたな。抽象と具象のジレンマって見る側に委ねられているケースもあるけど、彫刻となると、ジレンマの内在性が平面より強いというか・・。」
▼「抽象に行きたいんやけど、具象に留まれー!って作品そのものが叫んでいるような、作品だよね。」
●「そうそう。」
▼「ところで、映画は観た?」
●「アメリカ映画を含めて月に1、2本観たけど、中でも印象的だったのは、誘われて行ったかわなかのぶひろの新作?だったな。」
▼「へえ、昔8ミリ映画の教科書的な本出してた人だな。」
●「そうそう。昔はあの本くらいだったんだよね、映画制作の教則本って。」
▼「『フィルム・メーキング』だっけ?あとJICC出版から出ていた別冊宝島の『映像メディアの作り方』っていう本、高校3年の時だから、1988年に読んだのだけれど、あれはもう完全にフィルム文化を無視している本で、はやくもパソコン通信のことに触れてあった。」
●「私は『2001年宇宙の旅』の作者で知られるアーサー・C・クラークが書いたパソコン通信だけに特化してある本持ってたな。」
▼「ああ、これからはコンピュータの時代なんだよなっていう最初期だね。ファミリーコンピュータが広まる一方、PC98とかでゲームやってた時代なんだよ。」
●「そういえばSANSUIというステレオメーカーから出ていたヴィデオエフェクター持ってた。ソラリゼーションと、ワイプとフェードしかないようなやつで」
▼「あれで、随分ナム・ジュン・パイクごっこやったんだよな。」
●「テクノノスタルジーの話はけっこう盛り上がりそうだな。で、かわなかさんの作品のタイトルが『熊回帰線』って言って・・。」
▼「へえ。ヘンリー・ミラーだ。」
●「中上健次都はるみの対談シーンがあるってことで観に行ったんだけど。」
▼「僕は行ったことないけど、紀州熊野大学っていう中上が生前企画していたイヴェントでの対談だよ。」
●「そうね、中上健次の声初めて聞いたんだけど、わりかし高い、やわらかい声でびっくりしたな。かわなかさんの呑んべえ時代(ゴールデン街時代)と中上健次がダイエットしはじめて、急激にやせたころと重なっていて、かわなかさんが「ダイエットなんかするから早死にするんだよ。」みたいなことしきりに言ってたな。」
▼「話脱線するけど、柄谷行人中上健次の『小林秀雄を超えて』っていう対談集があってこれの巻頭に置かれている二人の写真がまたいいんだよ。」
●「あっ、それ知ってる。どこかの料亭の座敷で柄谷行人がいばりくさった感じで膝立てて、煙草吸ってて、中上がきょとんと正座して、ニコニコしているっていう。あれ、いい写真だよね。」
▼「やっぱりお互い若いからいんだよ。」
●「そうね。一昔前の印象だけど、中上健次って若い女性はまったく興味ない人がほとんどだけど、意外におばさんに人気があって、どうしてかっていうと、成熟した大人男性にいったん飽きてしまうと、ナイーヴな少年像への憧憬が回帰するっていうことだと思ったわ。」
▼「失礼な言い方だけど中上健次の小説ってどれ読んでも似たりよったりで、むしろ、ぼくは小説じゃなく、言説の方、第三文明社から出ていた『発言集成』で、いろいろ勉強させてもらった感じかな。それはそうと、『熊回帰線』はどうだった?」
●「かわなかさんももうおじいさん、って言ってもいいくらいの年で、自己史を語りたい時期なのかな、えんえんと出生から青年期あたりの写真をコラージュしながら、自分でコメンタリーを加えてゆくっていう、まあありきたりと言えばありきたりな手法が1時間ほど続く。作家本人も会場に居て、映像観ながらベラベラ喋っている。」
▼「ぼくの記憶が正しければ、都はるみは確か京都御所の東隣にあるオウキ高校というところ出てて・・・沢田研二金閣寺のあたりに住んでいて・・ついでに言うとコーダクミは伏見の龍大近所に住んでいた。」
●「そうそう、都はるみの親戚に日本で最初に演歌を売り出した(!)コロンビアレコードの人がいて、中上との対談がいつのまにかそのレコード会社の男性を交えての鼎談になっているんだけど、中上が折口信夫を引用しながら演歌について語る下りなんかは面白かったな。」
▼「へえ、どういうこと言ってたんだ?」
●「<歌-ウタ>は<ウツ>から来ているってことなんだけど。<鬱>じゃなくて<打つ>ね。」
▼「演歌っていうのは70年代末からの音楽カテゴリーであって意外に新しい概念なんだよ。」
●「そうね、ジェーン・バーキンなんかもほとんど演歌。」
▼「話変わるけど、こないだ皇居行ったことないから行こうってことになって、東御苑っていうところブラブラ歩いてたら美術館みたいな建物が急に出てきて。」
●「多分、三の丸尚蔵館ってやつだよ。」
▼「なんのことはない、花をモティーフにした皇室美術自慢みたいな展覧会やってた。」
●「なんかいい作品あった?」
▼「そうね、平面、掛け軸、立体含め20点ほど展示してあったんだけど、小ぶりでもなく、ガサツでもなく、中庸な感じだったな。」
●「極度に洗練してないってことかな。庶民化された和様化。」
▼「そうね、おそらくは庶民受けっていう根本的なテーゼがあって、わかりやすいといえばわかりやすい。特に気になったのは『椿置物』っていう安藤緑山が大正期に作ったオブジェかな、当時、象牙の輸入なんて成立していたのかどうか知らないけど、象牙を削って彫刻化したもので、これはなかなか素晴らしかった。枯れかかった椿の葉もちらほら交えつつ、かつ葉の裏まで緻密に削ってあってついでに葉の虫食いまでも表現されている。まあおしべとめしべのスケールのバランスがいまいちだったんだけど、日本的キッチュのよりよい趣味的作品として見てたな。」
●「君も食品サンプルの日本的キッチュ性を言ってたけど。」
▼「実際、かっぱ橋なんかに行くと外人の観光客がサンプル買っているっていうのが面白いなって思って。」
●「キッチュっていうのはドイツ語で昔、マンガ論で活躍していた石子順造なんかが論じていた。おそらく第二次大戦中、日独伊三国同盟が成立したあたりに輸入された概念なんだと思うよ。映画監督のフリッツ・ラングなんかも実のところナチスドイツのウルトラキッチュなんかと通底しているところがあると言えばある。」
▼「ハーケンクロイツってセックスの態勢をシンボライズしたものって言うもんね。ほんとに俗の極みだ。」
●「あとはなんかいい作品あった?」
▼「強いて言えば、芝景仙という人が1917年につくった掛け軸『百日紅尾張鳥』っていうやつ。淡色の百日紅の中を尾張鳥が回遊している感じなんだけど、エンジ色の陰影がよかったな。ちなみに百日紅調布市のシンボルフラワーになっていて近所にもちらほら咲いている。」
▼「まあ3、4月あたりは例年通り鬱っぽくなって、やる気がすっかりなくなるってことがやっと身にしみてわかったな。去年は花見を5回くらいやりながら、江藤淳の『小林秀雄』なんかも含めて、ずっと小林秀雄を読んでいた。で、余計憂鬱になった。あれはクスリにならない毒だよ。」
●「白洲次郎ブームはもう終わったけど、そのあたりにTVドラマやってたんだよね。たしか、中谷美紀白洲正子の役やっていたやつ。」
▼「そうみたいだね。オレは見てないけど。」
●「そうそう、野々上慶一っていう人が書いた『回想の小林秀雄』っていうのがあった。」
▼「へえ、それは読んでない。」
●「野々上っていう人は、今もあると思うけど、文芸雑誌の『文学界』を出す時に資金集めしていた古書店の旦那で、最後まで小林の信頼を得ていた。で、小林秀雄が骨董仲間の青山二郎を最終的に裏切ったっていうのを白洲正子が野々上から知らされて泣いたっていうくだりがあったな。」
▼「なんか安心するな、その話は。青山はほんとにくらだないと思う。小林は青山に騙された、というか、へんな利害関係意識から追従せざるをえなくなった時期が確実にあって、その時期に決定的にロマン化したんだと思うな。」
●「『Xへの手紙』だっけ、<女はオレの成熟する場所だった>」って言ってるの。」
▼「そうだと思うよ。」
●「今、そんなこと書く職業批評家なんていないよねえ。」
▼「そうかね。」
●「大体「成熟したい」っていう欲望がないんじゃなかろうか。」
▼「そうね、まったくない。いかに未成熟でいられるかの方が端的に面白い。「幼稚」じゃなくて「未成熟」ね。まあ個人的には一回離婚して、結局一人の方が気楽で良いということに気付いたな。そういう意味ではいったん成熟から遠ざかった。しかし、制度的結婚以前に<彼女/彼氏、いる/いない>とかいう、この制度的響きにまずはウンザリさせられるし、この<言い回し>自体が非常に幼稚なものだとも思う。カップルを礼賛する言説の飽和状態がある一方、男の独身に関する言説は少数だとは思うよ。一番消費しにくい記号なのかねえ、男の独身って。」
●「そうね、ちょっと散歩に出る、とかコンビニに行ってくる、とかいちいち言わなくていいのが楽だと思う。」
▼「そうそう、お盆に実家帰った時、大学時の映像研究会の仲間4人で集まった。男性がぼく一人、女性が3人で、うち2人がバツイチだったんだけど、めちゃ面白かったな。バツイチがどうのといかいう話はまったくしなかったけど、ずいぶん盛り上がった。結婚も離婚もくぐりぬけた「絶対的敗北による絶対的勝利」とでも言うべき爽快さがあったな。ま、馬鹿話のオンパレードだったけど、このバツイチ会はしばらく恒例化するんじゃないか。」
●「じゃあ、このへんでお開きにしましょう。」
▼「そうしよう。編集に戻ります。」
(2009-12-27)