(コンサートノート1 のつづき)
今日は12月28日だからコンサートに行ってから11日経ったことになる。その時の印象はあっという間に薄れてしまい、もとの日常に戻ったことが意識できないほどの日常になる。思い返すと「あれは何だったのだろうか?」という不可思議な近い過去の薄い記憶がぼんやりと思い出されるばかりだ。
くるりのウェブサイトのBBSなどをちらっと見てみると、くるりファンによるいろいろなコンサートやCDの感想が書いてあり、そのほとんどが他愛ない褒め言葉で埋められている。しかし、そもそもファン、とはなんだろうか。僕のバイト先にも嵐のファンがいたり、キンキキッズのファンの女の子がいたりする。しかし、実際彼女らと話していると「それなしでは生きてゆけない」といった切迫した感じがしない。だからといって「惰性でファンやってます」といった感じもしない。何なのだろうか。ファンとは。
ここで思い出すのは「自分自身を代表できないものは誰かに代表してもらわなければいけない」というカール・マルクスの言葉(『ブリュメール18日』)だ。さて、自分自身を代表できないというのはどういうことか。自己表現できない、する技術がない、すべてを流れに任せている。ひたすら待っている。自分から何かをしようとしない。していても、それを発表しない。ないし、発表するほどのものではないと思いこんでいる(内面化している)。・・・確かにこんな人はたくさんいるし、彼ら彼女らに対して、とりたてて言うべきことは何もない。
厄介なのは「自分自身を誰かに代表してもらわなければならない」という事態が起こることだ。「自分自身を代表できない」という意識を持った時点で「自分を代表して欲しい」という欲求が出てくる。「自分には取り柄がない。何もできない。でも夢だけはたくさんあって、欲望だらけで、しかし、何もできない自分を認めたくないから、逆にそういう夢や欲望に押しつぶされていて、とてもしんどい。どうにかしてほしい」という事態だ。ここで「嵐やらキンキキッズやらどうでもいいバンドやらが」顔をのこのこと出して(というか、労働として顔を出すように仕向けられて)「僕たちのコンサートに来なよ!きっとハッピーになれるよ!」と訳知り顔で主張するわけだ。
資本主義における文化産業のほとんどが、この「自分自身を代表できない」という疎外の状態を「開発-利用-搾取」して成り立っているのだが、くるりとそのファンも例外ではないだろう。飽きられないように配慮しながら、しかも、ちょっとずつ手法を変えて、ようは「らしさ」からは外さないように、やっていかなければならない。これもまたファンと同じくらいしんどいことだろう。
あと、コンサートにおける照明、ヴィデオプロジェクターの使い方、音のバランス、余剰電力の消費などについて若干かんがえたが、今は書く時間がない。編集に戻ります。(2009-12-28)