BALL&CHAIN  11




先日の「写真3」(の付随文)に関するメールをguusさんよりいただいたので、簡潔に返答したことを採録しておきます。(若干のアレンジ有、転載許諾済)。ごく冷静に考えて、誤解を生んでしまうようなコメントだったのかもしれない。反−帰属はニヒリズムとは関係ないです。あしからず。





「自分自身にさえ帰属しないこと」は、原理的に無理です。「自分自身にさえ帰属しないこと」それは死んでも、(死後においても)無理です。まずは、「身体の一個性=私」が法的準拠枠になっていて、近代国家以降、みながみな、それに従わざるを得ないようになっている(だから私=身体の表面は、実のところ裏側で法が支えているのだといえます)。出発点は、この「法に守られるべく生まれた私」であり、まずは命名された名前、生年月日、生誕地、家族構成などが、国家に登録されます。ゆえに、「自分自身に帰属させようとする」のは、まずは国家であり、自分ではない。自力で自分が自分になろうとする、というのではなく、国家が「あなたはあなたであれ」と言ってくるのです。この順序をとりちがえてはならない。名前一般は親が愛情を込めてつけたものなのでしょうが、国家に登録したとたん、即座に形式的な記号になります。名前の価値が共有されるのではない、国家によって名前の、あるいは名づけの価値が転倒させられるのです。社会への帰属の初発が、まず「自己紹介」から始まるのも同一のことでしょう。





「自分自身にさえ帰属しない」ということは、パラフレーズすると、「それを言っているのが自分なのかどうなのか、それすら問題ではないという地平に到達する」ことです。(そういう意味では言表行為を問題にしていたのかもしれません・・これは安易なニヒリズムではありません、し、自己放棄、自己無責任を推進するものではありません。誤解なきよう・・・ちなみにこのセンテンスは書物からの記憶ですが、著者名は失念してしまいました・・・あとで調べます)。問題は、何でしょうか?たとえば「引きこもりか?自分探しか?」という若者の貧しいオルタナティヴが批判的にささやかれたことがありましたが、このことにも関係あるのかもしれません。どちらも強烈な自己形成願望がなければなりたたないでしょう。引きこもりはマイナスヴェクトルで、自分探しがプラスヴェクトルのようにみえますが、自己形成願望という意味では等価です。




と、(ここで一気に飛躍しますが)以上の文章を「私」が書いた。それは「私」に帰属し、この言表行為をもたらしたものは「私」である、と社会的には規定されることとなるでしょう。言表行為それ自体に<不可能性>としてのパラドックスが常に付きまとっているのだ、といえるでしょう。この逃れようのないパラドックスを自覚することから出発するしかない。どちらでもない、なんでもない、もうひとつの地平に到達するために、です。