たとえば マティスの『 音楽』
を 2016年現在にコンピュータが画像解析すること と マティスが『音楽』を描いたさいに 無意識的に行った タグ付け(記号処理) との差異はどう扱うのだろうか
(つづき) 最近はやりの IOT の概念に従えば なんでもかんでも 商品や物体にセンサーをとりつけて それらを インターネットを介して 情報データを共有すると より
ビッグデータに貢献できる また 使用価値の 応用範囲も
ひろがる といった方向が 考えられる
画家はキャンバスの裏側にBluetoothを経由できるICセンサー(画家自身が完全入力した)なりを貼り付けておけばいいのかもしれない モンステラにはモンステラの生産過程 それが
マティスに遭遇するまでの全過程がある
サロペットの購入場所 サロペット開発の企画会議からその製造過程のすべて サロペットを描いた青の絵の具の生産過程までのデータ ……1枚の絵画には実は数え切れないほどの情報量があるのだ という
事実があかるみになったとき これまでの絵画批評が 1枚の絵画の ほんの限られた程度のもの(記述情報)しか参照しえなかった ということに なるのだろうか
画家が(画家に限ったことではないが)主体的に1枚の絵画に(無限化できるくらいの)無数に含まれる全情報を恣意的に有限化し インターネットに情報公開すること(あるいは特定の人工ー美術批評ー知能に読解させる)によって ついに画家に近傍する美術批評家なるものは いらなくなる
この次元で しかし チャンス・オペレーション 乱数表応用などの偶然性取り込みの コンセプトからなる芸術作品(60年代ケージなどの)が また 応用されるだろう 偶然そのものは 人工知能は読解できないものとして
通常の劇場用映画となると気も狂わんばかりの情報量になるし 観客は その膨大な情報量を 無意識的に 捨象しながら 映画を知覚しているはずなのだが そういったものは言説 や 批評の対象とはなりにくい
つまり意識化しにくい
観客が物語を欲し 映画会社が物語を 売りつけるかぎりにおいて
■以上 2016年6月 ツイッター掲載分を転送