美術ノート 8



■ バーネット・ニューマン展   川村記念美術館  その2





バーネット・ニューマン、アルシル・ゴーキー、ジャクスン・ポロックなど、初期抽象表現主義の画家たちがニューヨークの美術シーンにおいて頭角をあらわしてきたその背景に、1930年代に起こったドルの暴落による大不況があったことを指摘しておいたほうがいいかもしれない(しかし、大不況の当時はまだニューマンは画家として認められていなかったようだ)。





ニューヨーク・スクールないし抽象表現主義の綿密にして貴重なドキュメント、『ニューヨーク・スクール』の著者であるドリー・アシュトン女史は次のように伝えている。





公共事業促進局(WPA)の設立は抽象表現主義の画家ほぼ全員にとって、1930年代における生活上の最重要事件だった。画家にとってWPAの一環である「連邦美術計画」は30年代すべてを表象すると言っても過言ではない。「計画」のおかげで合衆国の歴史上はじめて芸術家のための場が確立された。後に1940年代と50年代に有名画家となった者たちの一致した見解でも、WPAの功績は芸術家の共同体を作り出したことにあった。一般の人々同様に飢えていた芸術家に「計画」はいわば「食券」を配給したのである。そのおかげで彼らは生まれてはじめて自分の時間のすべてを作品に注ぎ込むことができた。また「計画」は社会を改革したいという芸術家の希望に応えるものでもあった。しかしそこから出現した最も注目すべき効果は、芸術家がお互いを発見するということから生まれた意識である。「計画」の時代以降、芸術家個人と社会の中間地帯が存在することになる。それは芸術家のミリュー(「場」)である。ヨーロッパでははるか昔から「場」の存在が芸術家を支えてきた。この事実がいかに重要だったかは、収入があるためにかえって参加資格がなかったり、自分からあえて「計画」に応募しなかったごく少数の芸術家が、後になって「不参加」の言い訳をしていることからも分かる。彫刻家イサム・ノグチは「計画」に採用されなかったために孤立感に苛まされた。バーネット・ニューマンが言うには、彼は「仲間のように『計画』の名簿に載らなかったために高い代価を払わされた。仲間の眼から見て私は画家ではなかった。私はレッテルを貼ってもらえなかった」のである。(『ニューヨーク・スクール』ドリー・アシュトン著 南條彰宏訳/第三章 芸術家とニューディール p,59 より)





ジャクスン・ポロックと彼のアクション・ペインティングを賞賛した批評家ハロルド・ローゼンバーグやクレメント・グリンバーグのアジテーションのもとで、「抽象表現主義」という「イズム=理念」はおおいにもてはやされるにいたった。そんななかでも、画家であるにもかかわらず、画家として認知してもらえないバーネット・ニューマンがいかに孤立した存在だったかが、多くの関連著作に散見される。ニューマンが孤立していた理由のひとつに、ニューヨーク・スクールの画家のなかでも、より知性的(理性的)であろうとし、それゆえに多弁でありすぎたこと、そして彼のみが生粋のニューヨーク子だったことがあげられる。再びドリー・アシュトン女史の著作から引いておこう。





ニューマンは生粋のニューヨーク子だった。(荒地の子であるスティル、不況にあえぐ炭坑の子であるクライン、コサック騎兵の鞭をうけたことのあるロスコ、プレイリー(大草原地方)の子であるポロック、正真正銘のヨーロッパの人であるデ・クーニングとは違う。)彼は地下に潜行したアメリカのアナーキズムの伝統を知り、さらにヨーロッパのアナーキスト文献を読んで、啓発された。アメリカではアナーキズムの伝統は古く、その思想の根本理念を目一杯に生かそうとしてユートピア的な共同体が建設された時代に遡る。たとえばジョージア・ウォレンが要求したのは、個人の「絶対的」な自由以外のものではなかった。自由とは何か、とウォレンは問いかける・・・彼にかわって自由を定義することは私には許されるだろうか。誰も他人のために自由を定義できない。「常に自由である個的人間はすべて彼自身の君主である。自由であること以上に自由は考えられない。同様に自由であること以下にも自由はない。」彼は自由が真に自由であるための前提は「断絶、分離、個性」であると考えた。ペンシルヴァニア州ニューハーモニーにあるウォレンのユートピア的セツルメントで実行された相互扶助の精神は、ヘンリー・デヴィッド・ソローをはじめアメリカ最大の思想家によって擁護されてきた。絶対的アナーキズムは、ニューマンが強く惹き付けられていた教義である。(同上 p,96)





ニューマンは、「相互扶助」を、その思想の基底にもつロシアのアナーキストクロポトキンの著作(『ある革命家の回想録』)に序文を寄せるほどの、また、ニューヨーク市長選挙に立候補し、「大人に遊び場を!」というスローガンを掲げるほどのアナーキストだったと言ってよい。ニューマンの人となりを知る上で、上記の2つの引用文は、的を得たものなのかどうかは僕にはわからない。そして、ここで唐突な断言を許してもらえるならば、「ニューマンの絵画そのものからはあまり「アナーキック」なものが見受けられない、それゆえに多大な興味をそそれれる」ということだ。




「絶対的アナーキズム」、それはニューマンよりもポロックの絵、ポロックアルコール中毒とともにあったスピリチュアルな態度にこそより多くの要素を見いだせること、しかし、それはややロマン主義的なものに傾斜している、ということから、差し当たってニューマンの絵画を「ポロックからの距離」として見直すことができるのかもしれない。(2010−09−25 つづく)